大在家八雲社について
江戸時代中後期頃、大田窪村(現在は太田窪となっている)に悪疫が大流行し、多数の病死者が出て村の人たちは大変心配と不安が募り、その極に達した。
このため、村人たちが集まり話し合い、疫病退散の御利益あらたかなる、京都八坂神社に祈願参拝と御分身勧請のため、村人の代表者3名が村人と水盃を交わし京都へと旅立った。そして、天保12年(1814年) に八雲社の社殿を建立し、村に牛頭天王様が御鎮座されたところ、さしもの疫病も次第に衰え、その後は絶えて疫病の発生はみなくなったという。
村人たちは、この御利益に村中をあげてお祭り(天王祭)を催した。慶応2年(1866年)のお祭りに際して、氏子で囃子連中が結成され、神輿も修繕し7月13日を宵宮とし、氏子総出で御神酒をあげてご祈祷を行った。
翌1 4 日には神輿の村内渡御が行われ、青・壮年男子に担がれた神輿が 村中を練り歩いた。
昭和13年(1935年)に谷田村大字太田窪字大在家の耕地整理が行われた際、その余剰地6畝18歩が寄贈され神社境内とし、現在ある社殿が新築された。また、同時に神輿(現在の大神輿)も新調され、八雲社の面目一新した。
その後、昭和51年4月に「大在家八雲社」を宗教法人として登記した。その記念事業として、稲荷様、天神様と烏居の建立等の工事を行った。同年10月には三社遷宮執行にあたり、善前にある行弘寺住職(神主でもある)により、遷宮祭を執り行い、現在の大在家八雲社となった。
平成12年11月には、氏子たちが京都八坂神社を参拝し、新しい御神体を拝領してきた。
天保12年ごろ 第12代将軍 徳川家慶 水野忠邦( 老中)による「天保の改革」が始まる
慶応2年ごろ 第15代将軍 徳川慶喜 翌年、徳川幕府が滅亡
(第●代総代 稲垣隆正)