「ロコ」0章~Ⅳ章             

初章              2025年12月 22:30

「風が吹くと悲しくなるのです。みりみりと風の音が聞こえます。私に見えるのは青い青い炎です。大きな二本の氷の柱が燃えています。見えませんか?

いいえ、この人は盲目ではありません。私のことも私より見えています。だって私に私は見えないでしょう?私にもっとも見えないものは、鏡の前に立たない限り、私です。でも、この人にはずっと私が見えています。目が見えなくなっても、見えなくなる前にやっと会いに来てくれましたから、だから今も、私より私が見えています。

はい。この人が仕合せであれば私も仕合せです。この人が悲しんでばかりいると私も苦しいです。この人はずっと逆巻く世間の風を避けて避けて生きてきました。もう十分と私は思っています。これからは私がこの人の目です。私がかならずこの人を護ります。この人がもういいというまで。行き場がわからないとこの人は悲嘆します。私は違います。やっと、一緒に居られるようになったのです。ずっと探していた私のロコです。この人が私の居場所ですから。

このところ風ばかり吹きます。風が吹くと目に涙が滲んできて、見えるものや聞こえるものがあるんです。ほら、氷の柱から立ち上る二本の炎が一つになってゆきます。風の吹き荒ぶ夜、わたしは生まれたって。ママ、その夜、とってもしあわせだったって。あとさきなく、そこでいいって。だからわたしが生まれたって。見えているものがホントか、まだ見えていないものがホントか、そう言ってこの人のおとうさんは絵を描いてたって。見える盲目が大勢いるって。

盲目でもこの人に私は見えています。それがどんなに嬉しいか。風のなかに見えるものをこの人はこの頃聞きたがります。ほら、あの焔がお父さん。細い方はきっとこのひとのお母さん。寒かったのに今は、あったかいよね。きっと、二人とも。一緒だった子供の頃に戻ったように。あれから長い年月がたちました。もう会えないと思っていました。取り戻せた私の、いえ、私たちのロコをそっとしておいてください。邪魔はしないでください。

私はその時決して許しません。風が止むころ、またお越しください。」

こう言い終えて、巫女装束の十子はさとしの肘を掴み、レジデンスの入口の方に向かおうとする。さとしは肘に掛かった十子の手を軽く振りほどき、焼けている合掌造りのアトリエから立ち上がる二本の青い焔を少し首を傾げてまだ横目がちに見上げている。視野の端で、夜の闇の天空に青い二本の命の焔が吸い込まれてゆく様を確かめるように。促されてさとしも後ずさりしながらレジデンスに歩み始める。追いかけようとする巡査たちを村岡署長が制止する。

「追わなくていいんですか?」

「構わない。」

「放火の疑いがあります⁈」

「そうですよ、それに明白な消火妨害罪です。」

村岡が十子に声を掛ける。

「そのママというのは、十子さん、あなたのお母さんのことかな?」

「そうです。」

「そのママは、今、どこにおられるのかな?当然、ご存知でしょう?」

「はい。」

巡査二人が顔を見合わせる。再び十子とさとしの方へ今にも向かおうという素振りをみせたが、村岡が両掌を立てて再度制止する。

「どこにおられるのかな?」

「(長い間)10年前亡くなりました。」

「え?」

「私が最期を看取りました。致死量のペントバルビタール・ナトリウムのママの点滴のバルブを回したのは私です。」

陣風がアトリエの上空から火の粉を巻いて吹き下り、地面を這い、坂道を下ってゆく。合掌造りの太い木組みの左側のそらあまが焼け落ちて、火屑が周囲に跳ね上がる。だが、誰一人その跳ね火を避けようともせず、固唾を呑み込んだまま棒立ちになっている。突風の音だけがレジデンスの前を支配している。巫女装束の十子の顔が火照りを受けて、薪能の能面のように闇の中に浮かぶ。

「スイスのSils湖畔の墓地に、この人のお父さんと並んで眠っています。私が二人のお墓も建てました。私は最期までドイツ人としてママに育ててもらいました。色々なことを教わりました。そのママのことしか知りません。皆さんに見えることがホントでしょうか?いえ、見えていると思い込もうとされてませんか?ご自分がご自分で見えますか?今、いらっしゃるところがホントに皆さんが望まれている居場所でしょうか?何か諦めてそこにいらっしゃるのではありませんか?思い起こすと心の底で私はこの人だけを待ち続けていました。それがわかりました。ホントの私がこの人には見えています。それが仕合せなのです。ホラ、もうじき氷の火柱は燃え尽きます。あの二本の青い焔はこれで一筋となってじきに送り火も消えます。

そういえば、そう。見ているうちに、急にこの人をこれから仕合せにしたいという強い強い、新しい思いがこみ上げてきました。風が止んだら、その頃にまた、お越しください。」

十子が一瞬しゃがんで千早の袖の中から何かを取り出して地面に置いて、足早に二人はレジデンスの中に消えていった。巡査たちも消防団員たちも立ち位置から不動のまま署長の指示を仰いでいた。村岡は十子がしゃがんだところに行き、暗い地面から転がっていた皮下注射用のバイアル二瓶を拾い上げ、素早くボケットにしまった。

「よろしいんですか、このままで?」

「(頷く)なァ、巡査。」

「はい?」

「人を裁く前に、我々が一人の人間としてやれることがあると思わんか?」

「罪を許さず人を許す、ですか?」

「いや。罪として裁く前のことだよ。」

「?」

「見えてると思い込んでる、か。それはありかもな。」

「?」

「死ぬつもりだったかもしれん。場合によって二人でな。」

「え?」

「(ポケットの中のバイアル瓶に触れながら)もうそれはないよ。夜祭の警備に戻るぞ。団長、あとは宜しく頼みます。」

 

Ⅰ章 Fête de vendange 前夜     1979年10月20日

Mitsoukoはさとしの大きめのボア生地のキッズ・アノラックを裏返しに着て、フードの縁に施されているコヨーテ・ファーの毛先を小さな手で何度も引っ張って、もっと深々と被りなおそうとしている。裏返しに着れば、着ているものの持ち主が必ず会いに来てくれる。そうさとしが言っていた。

ブドウの収穫が終わったKaysersbergの廃墟周辺のすべての斜面を寂寞とした風が吹き降りてくる。その風の底を流れる清流の支流沿いに中世の元修道院の建屋を受け継いだマダム・フェラーのワイナリーDomaine Weinflussの館がある。小川の上に架けられた石梁を渡り、ブドウの木の巻き付いた煉瓦造のアーチを潜ると、広い中庭に入る。中央の簡素な薔薇畑に沿って歩いて主館の玄関にたどり着く。入り口は地面から地階の高い梁までぶ厚い何枚かのヨーロッパオークの板木をまず嵌め込んでから、ヒトの背丈の分だけ板壁を刳り貫いて作ったような中世そのままの教会堂風の重い扉で、鉄製のドアノッカーがついている。さらに地上一メートルぐらいのところにももう一つ小さな鉄製のドアノッカーが取り付けられている。マダム・フェラーが子供たちを呼ぶとき音が響くように新たに自分で打ち付けたものだった。その入り口から別館に沿って30メートルほど歩いたところに不思議な高低差のある二股のヨーロッパ黒ポプラの立樹がある。一方の低い幹はかなり円周のある黒い切り株だが、裂けた真ん中や株の輪郭全体から蘖が生え、葉をつけた新しい太い枝が伸び始めている。もう一方の幹はまだ若く頼りないが高さは4メートルほどで、小枝を纏い、秋の黄葉を寒空に戦がせている。その奇妙なポプラから二、三歩離れたところに、石造りの屋根付きの古い井戸がある。Mitsoukoはその蔭に蹲ってフードを何度も何度も被り直している。主館から出てきたマダム・フェラーが気づいて微笑みを浮かべながら腰をかがめてわざわざ下のドアノッカーで扉を中腰のままノックしてMitsoukoの関心を引こうとする。

「Mitsouko、さとしはお城のFête des vendangesの準備に行ってる。」

そういえば、Mitsoukoにはドイツ語で話した方がいいことを思い出して言い直す。

「さとしはお城のTraubenfestの準備に行っていると思うよ。パパといっしょに。そうだ、Erikaママがね、そろそろKIMONOを持ってくるって言ってたからね。」

Mitsoukoはフードから垂れ下がるファーを持ち上げてマダム・フェラーをチラ見する。そしてすぐマダム・フェラーが見上げている山の上の城の方を振り返る。そういえばさっき、さとしを呼ぶ声がしていた。さとしの父親のジュンの声だった。

「バチが届いたよ。お城に上って、太鼓叩こうか?」

「やっと届いたの⁈よかった!みんなも行くの?うん!行く!」

すぐ戻るからね、と言ってさとしがアノラックをMitsoukoの肩口に引っかけて行ってしまった。裏返して着ても、ぜんぜん戻ってこない。フード越しにまた山の方をチラ見する。一頭の背の光るDracheが、うねりながらお城に上っている。

Kaysersberg城の城壁を照らしていた照明は折悪く故障していたが、村の収穫祭とワイン街道20周年祭二つの大イベントの同時開催ということで村人が越冬用の暖炉用の薪のストックを大量に拠出して、中世さながら随所に薪明かりを設置することになった。今まさに麓から城までのブドウ畑の坂道に丁度松明を振りかざし若者たちが歓声を上げながら点々と鉄製の篝籠を立て、薪をくべて登っている最中だった。城塔の壁面のいくつのも出窓にはすでに大きな篝火が置かれていて、城壁の不規則な石垣の凹凸でゆらゆらと篝火の火照りの影が揺れいた。薪を入れて背中で皆が担いでいる大籠には、昨日までは、刈り取られたMuscatやRiesling、Pinot Grisといった主に白ワインの品種のブドウの房がうず高く積み上げられていた。

そういえば、さとしの父親のジュンは今年も初日は葡萄の入った大籠を担ぎ上げられず、頭を横に振りながら助けに寄って来た村のヘルパー連中に揶揄されていた。

「もうジャポンではサムライは死滅したのか?。」

「カメラもラジオも小さくしたのは、弱くなった日本人には重すぎてもう持てないからか?」

「SAKEなんか飲んでるからだぜ。いいか、ワインを飲むんだ。力がでる!」

「私は画家で、だから普段はパレットと絵筆しか持たないので・・・」

「でもさ、ジュン、あんたこの前もあんなバカでかいキャンバスを城まで持って上がってたよな?」

「あ、俺も見てた!あんたの体の倍以上の大きなやつだろ?ちょっと心配したんだ。」

「まァ、ちょっと大変だったけど、おかげさまで絵は無傷でした。」

「いや、俺が心配してたのは、ジュンのキャンバスが俺の育てたSchlossbergの極上の Pinot grisを傷つけやしないかってことだぜ?」

一頻りの笑いの渦。ジュンのKaysersbergのブドウのvendangeのヘルパー参加は7季目になる。ヘルパーの輪の中心でジュンを冷やかしている当のOttoに誘われて来たのが6年前になる。

山合の農村で独自の民俗芸能が保存されているというフランスのアルザスとの共通点で、200年以上の伝統を持つ秩父に伝わる地芝居の「小鹿野歌舞伎」をColmarのParc des Expositions de Colmarで開かれる観光見本市に招聘する企画が浮上して、秩父夜祭の巨大な山車とその前で嘶く白馬のオーバーラップした構図のシャガール風の200号の大作「絵馬」でN展の新人賞を取っていたジュンに準備委員会の白羽の矢が立った。

寝耳に水の問い合わせだったが、お祭りの絵描きさんのせがれということで一人息子のさとしは村祭りの少年団に駆り出され、村歌舞伎の子役をやらされ、ジュンは屋台の書割を描かされたりしていたので、流れとしては当然とも言えた。村長が訪ねてきた。

「万が一じゃけど、行くことになったらさァ、村おこしになんべェ?」

「村長さんが行くん?」

「ばかこけ。おらァ、フランス語なんざァしゃべれっか。やっぱし、おめェしかおらんが。」

村長が立ち去った縁側に座り直して、ジュンは書架から持ち出した黄ばんだ封筒を外濡れ縁の床板の陽だまりのなかに置いて軽く礼をする。以前フランスにいたころ、たった一度だけ先生から届いた大切な封筒だった。中から一枚の写真を取り出して見つめている。何年振りか。ジュンの秩父夜祭の屋台の試作画の白黒写真が半透明なシートに収められていて、シートの上には朱色マジックで先生の大きな花丸が付されていた。「絵馬」の構想の原点だった。先生が6年前亡くなられたことは報道で知った。まだ早いと知りながら、昨日追肥した前庭の方をジュンは見遣る。水仙の芽はまだ出ていない。夕陽の当たる土面を見遣りながら、憑かれたようなあの絵の成り立ちを思い返している。描いていたのはジュン一人ではなかったような気がする。

日本三大曳山の一つ秩父夜祭の山車には二種類ある。本宮の日、実際に、秩父神社境内で両翼に張り出し舞台を更に延長して、秩父歌舞伎正和会や小鹿野歌舞伎保存会などの役者歌舞伎が披露される文字通り移動式の大掛かりな回転舞台の役割も担っている「屋台」と、大太鼓と締太鼓を載せて秩父屋台囃子を演奏しながら曳かれる「笠鉾」。

ジュンは群衆のうねりや歓声をそのまま具象しても観光協会のポスターになってしまうだろうと思い、人は外して、人の熱狂と狂騒を湧き起こす曳山の絢爛たる夜の美の迫力の源泉である大太鼓の轟いてくる万灯の提灯で飾られた笠鉾の方の外容のみをまず描くことに決めた。丁度ぎり回しで方向転換する躍動の瞬間をほぼ正面から斜めに構図した。光の塊の笠鉾が今にも見るものに迫り、場合によって見るものを圧し潰すかのように。祭りの群衆が隣にいるものとの身分や貧富の差を気にすることも、値踏みすることも忘れ去り、同じ祭りのただの人として、「ホーリャイ、ホーリャイ!」と一年分の鬱積した鬱憤や悲嘆や喪失をここぞと吐き出して、自分を解き放ってゆくその物凄い人の気の塊は、全て武甲山から降臨する龍神として描く予定だった。ふと日本画の先輩画家が「龍は描くな。龍を描くと死ぬ。」と言っていたことを思い出した。何より、ジュンは龍を見たことがない。見たことがないものをデフォルメしても、また巨匠の描いた水墨龍を真似ても油絵では、墨の濃淡とおそらくは必ずしも画家本人の意図ではない神秘的な刷毛の余韻を期待できない。デッサンしても目を入れると漫画になってしまう。逡巡しているとき、両神山中腹の実家の山の縁に立つ一頭の白馬を見た。近くに厩舎で馬を飼う農家はなかったが、それを訝しむ間もなく、ジュンはアトリエに駆け込んだ。白馬を切迫してくる万燈の笠鉾と見る者との間に立たせよう。見る者とは今はジュン本人一人だが、絵が完成すれば、この絵を見るのは他人となる。

一頭の白い馬。その突然の出現に、見る者である荒くれだつ祭り衆も、浮かれて騒ぐ群衆も神の使いと畏れ、固唾をのんで見惚れるに違いない。漆黒の夜空には家宝の形見分けで譲り受けた黒谷の和銅石の小片を削って混ぜたピグメントブラックを使った。前面の白馬は上下遠近法で当然背景の笠鉾より大きくなる。白馬は白を塗り込むのではなく、笠鉾の万燈の光が白馬の背や鬣から透けて見えるようにキュービズム風にオーバーラップさせることでその神々しさを表現できるはずだ。白馬の白は、この作品の命と言える。ジュンは輪郭線を面相筆で引きやすくするため、まずキャンバスの表面に下地としてシッカロールを溶剤に溶かし込んで塗り付けた。日本画の先輩画家に教わり、3カ月ほどかけて巻鉛版に浮いてできた鉛白を削って漉した自家製の半透明の白馬ホワイトを苦労して完成した。確かに作品になった。

コルマール観光見本市のコンペティション会議で紹介するのは取り敢えず組織の規模が大きい秩父夜祭ではなく小鹿野の春祭りと子供歌舞伎に決まり、フランス語もできるらしい両神在住の祭りの絵描きジュンは、さすがに固辞できなくなった。仮に本決まりになったら、予算は限られているため、小鹿野歌舞伎を超短編に仕上げ、小鹿野歌舞伎の子役の練習をつんで、太鼓も叩ける息子のさとしを連れてゆくしかない。他の子を募っても、町会は簡単に人選をできないだろう。特に娘を海外に送るなど何かあったら誰の責任か、両親が同伴するとして旅費や日当はいったい誰が持つのか、一体全体、東村から選ぶのか、西村からか。ただ、小鹿神社の例大祭の華やかな着物を着た少女たちが金棒を打ち鳴らして歩く曳き踊りの手古舞はフランス人に見せつけてやりたい気持ちもある。必ず受けるだろう。着物や飾り物を現地に輸送して、フランス在住の日本人の子女に代役を依頼するしか手はないが。

まずは春祭りと屋台の曳き回し、歌舞伎と曳き踊りなどのエッセンスを編集した20分の8ミリフィルムを見せるだけならと、アルザス行きの一人での出張を受けた。そうと決まれば、六年前フランスで亡くなった先生の墓参りに回って受賞の報告もできる。花丸付きの写真のシートと「絵馬」の掲載されたN展の作品集一冊も入れ、使い古した和仏辞書もトランクに詰めた。

まるで物見遊山気分でマイクロバスで同行して来ていた小鹿野歌舞伎の地元衆に羽田空港で酒気を帯びた万歳三唱で送り出された時、まさかジュンがKaysersbergというアルザスの山合の僻村に毎年来るようになるとはついぞ思ってはいなかった。フランスを再訪したこの翌年から、さとしを連れて夏から秋口にかけて毎年Kaysersbergに逗留するのが恒例となった。Domaine Weinflussの女主人マダム・フェラーの好意で、収穫を手伝うことが唯一の条件と言ってアパルトマンの二階の一室をアトリエ代わりに使わせてもらっている。収穫期まで残り、十月末には帰国していたが、さとしが小学校にあがってからは、一度一緒に帰国してからまたすぐにアルザスに戻っていた。今年は刈り取りがずれこむ都合で、ワイン街道の20周年祭と合わせて同時に行う大きな祭りになるということを聞いてさとしがどうしても手伝う、こっちの収穫のお祭りを見たいと言ってきかない。まァ、まだ小学生だからよかろうと二か月の休校届を出してみた。願いの叶ったさとしは今浮き浮きとしながら村の青年に交じって松明を振って歩いている。フランス語で青年たちと何やら話せている。学校の成績は良くはないが、それはそれでいいじゃないか、ともジュンは思っている。他の子にはない経験になっているだろう。何よりずっと日本では塞いでいるようなさとしがフランスに来ると笑う。良く笑う。それに祭り好きなのは父子の遺伝子なのかもしれない。青年たちとの会話が風に乗って聞こえてくる。

「Satoshi、コヨーテのアノラックどうしたんだい?」

「そうだよ、寒いだろ?」

「Non、ぼくは全然寒くない。」

「Satoshiはサムライだもんな。」

「さっき見たよ。小さいフィアンセに貸してあげたんだろ?」

「寒いって言ってたから。」

「Monsieur Satoshiは紳士だ。」

「ふぃあんせって、どういう意味?」

青年たちの笑い声が聞こえてくる。一段高さの低いさとしの松明が今、青年達の松明を追い抜いて先頭になって城の斜面を登ってゆく。

Ⅱ章 Vin Bourru(もろみワイン)     1973年9月28日

コンペティションのあるコルマールに入る前夜、守屋ジュンは画学生としてパリにいたころから一度見たいと思っていたシュトラースブールの大聖堂に近い旧市街のホテルに泊まった。予期せず、日本人のビジネスマンが10名ほど同宿で、だれもが明らかに経営陣営のメンバーであることは明らかだった。黙礼は交わしたが、ネクタイ族ではないジュンに話し掛ける気配はなかった。その小団体と夕食の時間もほぼ重なり、席はわざと離れたが、ホテル内の同じレストランで食事を取ることになった。他に徐々にドイツ人やフランス人の客が入店してきて少し気まずさは薄らいだ。団体の食事が終わって、デザートが配膳されてすぐ、ソムリエの認定バッジを輝かせた男が目も輝かせて日本人客のテーブルに寄ってゆき、各々の席に透明な食後酒の注がれたグラッパ・グラスを置いて回った。そのサービスの仕方は非の打ちどころがなく、ある意味フランスのワイン文化の格調と伝統の高みから、自信を持って遠い国日本からの賓客に接しているという独特のオーラが感じられた。日本のサービスのように妙に仰々しくへりくだるうるささがない。黒服のシルエットが然るべくなのである。英語で話しかけ始めた。

「皆さんは日本からだとお伺いしましたが?」
「そうだが?」
「当ホテルとレストランをご用命いただき有難うございます。アルザスのシュークルートとソーセージのメニューはご堪能いただけましたか?」
「うん。ドイツ料理に似ていたけど、なにか同じ酢キャベツのドイツのザウアークラウトよりずっと品があるよね。」
「有難うございます。さて、皆様に今お配りしたのは当レストラン
からのお礼のDIGESTIFです。どうぞご遠慮なくお飲みになってくだ
さい。」

皆一斉にどこかの研修で習った通りに匂いを嗅ぎ、不器用にグラッパ・グラスを振り、一口試し飲みをする。

「おう。おいしいね。有難う。」
「皆さん、それが何か当ててみてください。」

また全員がグラッパ・グラスを振り始め、今度は口の中で味を確かめるようにもぐもぐとし始める。そして飲み干す。

「うーん・・・何だろうね。」
「フランスのリキュールは詳しくはないんでね・・・」

ソムリエは少しだけ微笑んで飲み終わったグラッパ・グラスを回収し始めた。

「日本のSAKEです。」

ジュンは声は押し殺せたが爆笑寸前だった。

「やられたな。」
「無礼な奴だ!」
「いやまあ、日本人だと思っての善意じゃないですか?」
「うーむ。しかし俺も含めて君たちの味覚も大したことないってことだ。」

日本からのビジネスマンは、不機嫌とまでではないが、落胆を隠せない様子で散会していった。この時のソムリエが、何を隠そう今一緒にブドウを摘んでいるOttoだった。窓の方に顔を背けながら笑い涙を指で拭っていたジュンをソムリエOttoは見逃さなかった。

「ソーセージのmoutardeが辛すぎましたか?」
「ん?」
「いえ、涙を拭かれているので。当店のmoutardeは自家製で辛いので有名ですから。」
「ああマスタードね。いや、お宅のさっきのジョークのほうが辛口だね。」
「あなたも日本からですか?」
「そうだけど、俺はDigestifに酒はいらないからね。」
「それは残念。日本の方には喜んでいただけるかと思いましたが・・・みなさん、何かお気に召していただけないようで・・・」

涙が浮いたままの目でジュンはOttoを見つめる。わざと瞬きはせず。おい、お前、本当はどうなんだい?Ottoもジュンの目をのぞき込む。あれ、そんなに知りたい?そう簡単に手の内は。ソムリエ・エプロンの腰ひもを結びなおす仕草をしながら、Ottoの両肩が急に小刻みに震えはじめた。重い黒服を床にバサリと脱ぎ捨ててOtto本人が身軽になって飛び出してきたように、Ottoが屈託なく笑い始めた。

日本人に限らず、人は皆「型」に騙されやすいこと、五感の中でも味覚など全体の1%で、嗅覚と合わせても4.5%、視覚に依存することが85%をおそらく超えること、フォトグラファーや映画の仕事はだからソムリエや調香師の仕事より分がいいこと、Colmarから近いKaysersbergのDamaineに許可を得て自分で白ワイン用のブドウを育てていて、収穫の時期を迎えていること。良かったら手伝いがてら来てみないか。周り中の小高い山が全面ブドウ畑で、村全体がドイツ風のFachwerkという家の外枠や柱や太い木の梁が剥き出しで、その間を白やローザ色の漆喰が塗り込まれている建築様式の中世の民家ばかりで、村自体が美術館だと自分は思う、ヘンゼルとグレーテルが出て来ても不思議ではないぞ、廃墟もあるし、ただのワインにも恵まれるであろう、きっとあなたは歓喜するであろう。隣のテーブルの気難しそうなドイツ人老夫婦客がとうとう痺れを切らして、空になったワイングラスに追い注ぎをするよう人差し指を立てて催促をしてくるまで、Ottoとジュンはまるで普段着に着替えて居間にいるように妙に意気投合していた。日当は払えないが、Domaineに泊まれるように手配してくれることと極上の今年の搾り
たてのVin Bourru(発酵初期の濁りワイン)を条件にジュンはコンペティション会議の翌日、Ottoのワイン畑に同行することに同意した。ジュンの席を離れる際、Ottoが小声で耳打ちをした。

「フランスではね、ミシュランの星持ちレストランぐらいなんですよ、ワインの追い注ぎをソムリエやギャルソンがするのは。あの程度のワインぐらい、自分で注いでほしいんですがね。ドイツ人も『枠構造』の型にこだわりますからね。ドイツ語の文法そのもの。」

アルザス人はもともとドイツ領になったりフランス領になったりの歴史の中で必然的に両国語を操る。ドイツ人の悪口はフランス語で、フランス人の悪口はドイツ語と使い分ける。ただどちらも訛っていて、ドイツ人もフランス人もアルザスの人はアルザス語を話すが意思は伝わると感じている。生粋の内地のフランス人はジュンが英語で話しかけるとフランス語で正しい答えを返してくる。要するに英語の内容はわかっている。アルザス人は英語で話しかければ英語、フランス語ならフランス語、ドイツ語にはドイツ語で素直に呼応してくる。フランス人度は若干薄目な人々と言える。

OttoのVW PorscheでKaysersbergに向かう途中、ジュンは車窓からの風景に圧倒された。車道が舗装されていないため砂利がシャシーをはじく音を気にするでもなくOttoは丘陵の谷底を鼻歌を歌いながら走らせる。真っ青な秋空の中途から全面葡萄の紅葉した葉が、朝日を浴びて金色に煌めきながら、ある山からはまっすぐ垂直に、正面の丘からは左斜めに、その向こうの山からは右斜めに何本もの規則正しく並んだ密な無数の畝の隊列をなして、谷を走るジュンたちの車に流れ込んでくる。山々に他の樹が一切なく、すべての山と丘陵が全面葡萄の畝で覆いつくされている。世界のこの一郭は中世の頃から葡萄の木の群生地として開墾され、ヒトの手でずっと護られてきたにちがいないが、アルザスではそれがもはや人工なのではなく、まるで古代からそうであったかのような、ここではヒトがくる以前から、葡萄が山に自生していたかのように当たり前の風景となっている。日本のブドウ狩りで身の丈の棚から吊り下がった房を取ることしか知らなかったジュンは、見渡す一帯で葡萄の畝山が折り重なるさまをただただ呆然とまるで別の惑星に突然降り立ったようにぐるぐる見回すばかりだった。まるで養豚場の子豚が突如深い森にバサッと降ろされて、そうか、俺は元来、森のイノシシだったのかと気づいたような。ワインはそういえば、葡萄から造られているのだったよな。これがワインになる葡萄なのだな。Ottoが喉から生唾を呑み込む音を立てはじめる。後ろの座席の下に無造作に投げ出さた数本の空のワインのボトルが車体が跳ねるごとに小突きあって音を立てる。

「どうだい?もう美味そうだろう?俺の喉が待ちきれないってさ。」
「いや、ボトルが成っているわけじゃあるまいし・・・」
「何の何の。もう何万本のボトルが俺には見える。だめだ、唾が止まらない。」
「判った。じゃあ、今コルクを抜いた。何の香りがする?」
「Lindenbaumの基調に日本のスイカズラの花の甘い香りが僅かにする、またはコリアンダーシードの柑橘系の香りとも言える。ミネラルは若干のヨード系で、樽のシナモンの風味も香ってくる。若いニンフが身に着けた薄いヴェールが風に戦いで香ってくるこの世のものとは言い難い素晴らしい香りだ・・・」

客人ヘルパーという多少は遠慮ある扱いなどジュンが享受できる気配は現場になかった。40名ほどのDomaine Weinflussのvendangeヘルパーの一員として、割り当てられた斜面を村の人員の二人と三人の組で担当させられたが、どの色のいかなる現状の葡萄房を刈り取っていいのか、どちらの大籠に放り込むか皆目見当がつかないでいることを察知してから、村の二人がジュンをもっぱら運搬係として投入することに決めたため、大籠を背負って平均斜度30度はある中急斜面の上り下りを夕方まで負荷されることになった。大籠は半分ぐらいの時点で勘弁してもらい、その代わり上り下りの往復はその分頻繁となり、夕刻の引けには、膝がほぼ上がらなくなった。自分が初体験の客人に過ぎない事実をジュン本人が認知できるのは、たまに遠くから手を挙げてOttoがウインクしてくる時ぐらいだった。

刈り取りが終わって、皆Domaine本館の大食堂に用意された夕食会に集まっていたが、大柄の女主のマダム・フェラーが微笑みながら、且つ、軽く肩を労わるように触れて、ジュンを二階の客人用のアパルトマン側の寝室に引率してくれた。皆の笑い声が食堂の方から漏れてきた。「ジュン」という単語が時々歓声に混ざって聞こえてきた。奥の広い厨房から何か少し醤油が焦げるような香りが漂ってくる気がした。

「ムッシュー・ジュン、Excuse-moi!」

ノックをして先刻までの汚れた作業着の上にソムリエの黒服のジャケットだけ羽織ってOttoがバスルームに入ってきた。ジュンはまさにバスタブに素っ裸で浸かっているところだった。

「このアパルトマンにはどうやら鍵もないらしいね。」
「これはこれは、Pardon!ご入浴中でしたか。」

左腕に細長く折った白布をサービス・ナプキンのように掛け、手にしたマグナムのワインボトルから突き刺していただけの古コルクを仰々しく引き抜いて、中身の液体をトクトクと放物線をわざと大きく描きながらジュンのバスタブに注ぎ始めた。

「あの、こちらはですね、当ハウスからの歓迎の意を込めた先月収穫したKaysersberg産マスカットのVin Bourruです。美容と筋肉痛に効能があると言われております。かのナポレオンもワイン浴は大変お好きだったようであります。」

踵を返してOttoは浴室のドアを後ろ背に閉めて出て行った。とすぐにまた薄く開けて、隙間から首を覗かせた。

「大変だったね。人手が足りない。ジュンがいて本当に助かった。ゆっくり浸かって、さっぱりしたら下に来て。長テーブルの一番前の『Table pour Juin』を特別にみんなで用意しているからね。Surprise、Surprise・・・」

たっぱはジュンより額一つ分高いぐらいで178㎝ほど、バネはありそうだが、腹回りにかなり丸く肉付きがあって、黒服のヴェスト・ジレに収まっている時のほうが堂に入っている。穏やかなベース顔の輪郭にシェブロンの口髭。ブリュネットの髪が癖毛なことは揉み上げがカールしていることでわかるが、頭部はいつもオールバックにまっすぐ品よく固めている。32歳だと言っていた。ゲルマン系の険しい彫ではなく、南欧のラテン系のローマ鼻。丸アーモンド目に、少し濃い目のヘーゼルカラーの虹彩が瞳に柔和に普段は浮いている。レストランでは違った。明かりの関係か、わざと眉間を寄せているのか、散瞳して大きくなった黒目が細めになった半月目を占めていて、妙に威厳があった。Ottoは右目を見せようとする。だが、左目にいるOttoそのものをジュンは見抜いている。「本当に知りたい?」という目の会話の折、ジュンはOttoの左目だけを覗いていた。左右の目の印象の乖離をジュンはもう知っている。画家の目でジュンがOttoの瞳を凝視して値踏みを済ませていることをOttoは知らない。でなければ、ここにジュンが来ることはきっとなかった。

余りの過酷な労務に今日で帰ろうと丁度心に決め、どう切り出すか悩んでいたところだった。会場の電話を借りて、時差を構わず日本の関係者には、ビデオでのプレゼンテーションが好評であったこと、Colmarの観光局局長がパリから来ていた日本国大使館の二等書記官にぜひOGANO Festivalを招待したいと関心を示していたこと、二等書記官からはパリの日本人ではなく、地理的に近い西ドイツの首都ボンの大使館経由で手古舞の女児を募った方がむしろ良いと提言があったこと等々の報告はてすでに済ませてある。これからは予定通り私用でもう十日ほどフランスを回ることの了承も得てあった。

Ottoが注ぎ込んだVin Bourruの葡萄の饐えた匂いが取れない。日本ならバスタブから出て体を洗い流せるが、バスタブが置かれた木の床には排水口などない。立ち上がって下りて湯を被れば、階下に湯が染みて流れ落ちてゆくに違いない。シャワーは湯船の真上の天井に取り付けてあるアンティックな真鍮のイタリアン・オーバーヘッドシャワーからドボドボと太い湯水の筋が何本か落ちてくる仕掛けで、脇の床に立っても体を濯ぎようがない。熱い湯が出ることをむしろ有難く思うべきなのかもしれない。一度バスタブの湯を抜いて、天井シャワーを全開にしてバスタブの中で躰を洗いなおすしかなかった。先刻マダム・フェラーがナイフで大きな塊から切り分けてくれた赤いバラの花びらが片側表面に張り詰めてある固形石鹸は確かに薔薇の香りがした。おそらく客人へのもてなし用の高級なハンドメイドのsavonに違いない。香りは絶品だが、薔薇の半枯れの花弁が濡れて髪や頬や脛に張り付き、とうとうバスタブの排水口を全面塞ぎ、水を抜くのに一苦労を強いられた。割り箸などない。他人の家の排水口に指を深く突っ込むのは気持ちの良いことでない。明日発つ決心は固まった。

「やっぱり噂通り、ニッポン人はお風呂が好きなのですね。」

マダム・フェラーに奨められるまま、皆が会食している15メートルは優にある長テーブルの端の上座の二人席の右側にまるで王侯のように着席させられる。

「ここが今夜は『Table pour Juin』です。」
「すみません、お待たせして・・・」
「もう俺が入れたVin Bourruで酔っぱらって風呂で寝ちゃったかなって話してたんだ。」

Ottoが寄ってきてジュンの項のあたりを嗅ぎ始める。

「うん、香しいKaysersbergの新鮮なブドウの香りだ、いや、待てよ、石灰質の土の匂いも少しする。ん?薔薇の園をそよぐ風も感じる・・・。」

役者のような身振り手振りに皆が沸き上がる。ラテンの血が明らかに流れている。今年の葡萄を刈り取る同じ作業に誰もが一日中勤しみ、誰もが同じように疲れ果て、誰もが同じ食事とワインを振舞われているこの広間では隣に誰がいようが、それが仮に市長であれ、恋敵であれ、誰もがこの憩いの時間を楽しもうとしている。そういえば、水引幕と後幕がついている山車の「屋台」を取り囲む秩父夜祭の人の群れと同じだ。三味線と長唄に合わせた曳き踊りはないが、Ottoはさしずめ地芝居の狂言回しの道外方。幕が上がり、頬紅を塗りたくったねじり鉢巻きの女装したひょっとこが顕れるのを知りながら、幕が上がるまで笑いを抑えて待っている。今のは即興の言い回しで、祭りを楽しもうとしている観客のもっと笑いたいという地合いにひょっとこOttoのオフレコが油を注いだわけだ。そこは、秩父もKaysersbergも違いがない。

「ん?待てよ?(ジュンの髪を嗅ぎながら)なんか、Soyasauceの香りもするぞ・・・」

でんでん太鼓の代わりにOttoはスプーンで空のワインボトルを何回か弾く。

「それもそのはず、このMonsieurジュンは日本からの客人ですからァ」

奥の厨房からマダム・フェラーとアジア系の女がワゴンを牽いて広間に入ってくる。『Table pour Juin』と古いワイン樽の木っ端に白いペンキで手書きで書かれたテーブル・プレートを仰々しくOttoが卓中央の方にずらして、ワゴンからまるで中世の村の炊き出し用のように大きな黒い鉄の釜を重そうに持ち上げてジュンの前にドスンと置く。直径70㎝はある木蓋をジュンの鼻先で上げる。

「Voilà!(ほれ、どうだい)日本のSUKIYAKIだぜ!!」

 

Ⅲ章           2019年12月~2020年3月

目の前のフロントの飛沫防止用の透明ビニールシートが天井のカセットエアコンから吹き出されてくる風を受け、揺れている。支配人陽子の顔が火照るのはその温風のせいかもしれない。まだエントランス・ホールにチェックイン客はいない。東京2020オリンピックに向けて月額レンタルした65インチの大型4Kテレビのスクリーンが、中国泉州市のコロナ患者を収容しているホテルの崩落現場から切り替わって、ミラノ大聖堂を映し出している。ロンバルディア州全域や北部14県をイタリヤ政府が封鎖したというニュースが空ろに流れている。その映像も音声もシート越しで、何か向こう側のことではっきりとしない。それはそれ。いまはいま。両頬で涙の筋が乾いている。ストーム色設定のスリープ・モニターをのぞき込んで、陽子は目元と頬に軽くハンケチで当て押しをする。ビニールシート越しだから、こちら側のこともはっきりとは見えはしないだろう。マスクをし直す。

そういえば、チェックインするホテルの宿泊客が新型コロナ感染者だったら早晩全員が倒れることになると言って、何か仕切りが欲しいと十子が支配人の陽子に申し入れてきたのは、新型コロナがまだ中国の湖北省武漢市の単発事例として騒がれ始めたごく初期の頃だった。仕切りのイメージが今一つ陽子には湧いてこない。

「仕切りってあんたが言ってるのは、あの昔取り付け騒ぎがあったころの銀行のカウンターにあったやつのこと?防弾ガラスみたいなガラス張りで手元に小さい受け渡しの小窓があけてあるやつ?」
「いや、そこまで分厚くなくても・・・。」
「昭和初期じゃあるまいし。だいたいおおげさよ。」

その日、十子と二人シフトで組んでいたリムがフロント脇のバックヤードの事務スペースの大半を占有しているコピー複合機の裏から顔を覗かせて口を挟んでくる。

「ここ昭和初期のまんまの会社、ニッポンの。」

十子が笑う。

「たしかに!」

リムが「でしょう?」と目くばせを十子に返す。リムは中国大陸から両親と一緒に日本に渡って来た。両親は本国に戻ったが、一人残って日本に帰化している。日本人の亭主と二人暮らしの23歳。色々かなり事情はあるようだが、25時間連続勤務の特殊なこのホテルのフロント・ポジションに応募し、尚且つ辞めずに続いている女子スタッフたちには、それぞれ曰くはあってしかるべし、そんな判り切ったことを敢えてお互い詮索するような野暮はない、という暗黙の不文律もあって、ほとんどだれもお互いの深いところを知らない。このホテルの系列店のスタッフは大半がそうした女子で回っている。

事情を少しは把握しているのが採用担当の支配人の陽子だが、元女子バレーボールのオリンピックの強化選手だった陽子自身、女として、母として、三人の息子のシングル・マザーとして、申し分ないほどの事情を抱えて来ている。話せば長い。だから話さない。乗り越えた?どうかしらね。息子たちは育てたよ。まあ、まっとうにね。一番下は今日我が家の掃除当番。

若い女子スタッフが目下抱えている事情など陽子には見透かされてしまう。だから、なに?まあ、いずれ何とかなるもんよ。本人にとっての事情が、陽子の前ではその独自性も特異性も失い、喫緊の心の重みは妙に晴れ晴れとして、さばさばと軽量化してしまう。何とかする気があれば、いずれは何とかなるもの。じゃあ、まあ、とにかく一生懸命働いてみようか、私と。
体育会系女系縦割り社会のこの職場では、あまり威圧的な言葉がいらない。女として、母としての一人二役目の横割りのY軸が別途ボーダーラインとして引かれている。会社でのX軸の高い位置から見下ろす言葉より、Y軸という時間を、女として、母として、先に歩いている陽子から女子スタッフに伝わる無言の波長がある。ほぼ祖母から孫娘までの世代のY軸上であれば、女子として力づくでなく自然と消化されてゆくことも多い。

例えば、まだ仮入社中の亜実が明らかに憤慨の情を歩幅に込めて事務室に入って来た当時のこと。右の掌で左手の薬指のあたりをいじりながら支配人席に突進してくる。若いのに揉み手かよ?はい、何でしょう?こういう子は、まず辞めない。ただ軸足に若干の軌道修正が必要なだけ。Ⅹ軸か、Y軸か。

「タボおばさんのことなんですけど・・・」
「タボがどうかした?」

新しくフロント要員として仮入社すると最初の研修でメイク・スタッフとして有無を言わさず客室やトイレ掃除に回され、清掃係正社員で勤続18年のタボおばさんから掃除のノウハウと蘊蓄や機微を徹底的に仕込まれることになっている。通常のフロント業務をイメージして応募してくる男子も女子も、面接のときには、全く問題ない、と例外なく口にする。15㎡均一の狭い機能客室のシングル・ルームが大半ではあるが、タボの鍛え上げたクリーニング担当のメイクのスタッフはこれらの客室を文字通り塵一つなく磨き上げ、クリーンアップする。しかも比類ない素早さで。たいがい、客室のトイレ掃除三日目あたりで、四大卒や転職組で簿記2級を履歴書に書き込み、支配人補佐やフロント主任を希望する類は来なくなる。辞めるとも表明せず、連絡もせず、連絡もつかなくなり、消える。やってられるか、冗談じゃねェ。着信拒否はそんな無言のメッセージのつもりだろう。

「あなただって、うちが安いから泊まりに来たとして、その安い部屋に入ったら、値段からは思いもしなかったほど清潔だったら嬉しいでしょう?また来ようと思うんじゃない?」
「はい。」
「私たちには部屋の広さは変えようがないの。でも『うちでもいいや』ぐらいに思って来られたお客様が、『うちがいい』とおっしゃっていただくためにできることの一番の近道なのよ、清潔だっていうことは。」
「はい。よくわかります。そういうことじゃありません。」
「そう、じゃあ何?」
「あの、バスルームの掃除の時、叱られたんです。指輪を外せって。」
「指輪なくしちゃった?」
「いえ。外してませんから。でも、嘘もんなら外しときなって言われちゃって・・・。」
「ウソモン?」
「私の指輪が嘘ものだって。」
「よく意味わかんないけど?」
「他人に嵌めてるリングを嘘かホントか言われたの初めてで・・・」
「メッキだと洗剤で剥がれるかもしれないってことを心配したんじゃない?」
「メッキじゃないです。」
「自分で買ったんだ?」
「いえ、元カレに貰ったんです。でも外したくないんです。」

もう陽子にはこのココアブラウンの襟足を残したウルフレイヤーカットの20歳の子のストーリーがだいたい読めている。面接のときのロングヘアを最近切ったのだろう。ただマニッシュまでショートにする踏ん切りがまだついていない、か。

「大切ならなおさら外した方がいいじゃん。」

まだフロントでは指輪厳禁ということは伝える段階ではないだろう。こうして意見を言ってくるぐらいだから続ける気はあるのかもしれない。応募者が絶えることはない。来ては去る。宿泊客も従業員も。ホテル業も水商売であって、その水は入っては出てゆくおカネのことだけをさしているのではない。客も来ては流れてゆく水。従業員も来ては流れてゆく水。3本の水の流れが急流となって水が途絶えないように、ダムに水を溜めるのが陽子の仕事。

「そういうタボおばさんは自分の結婚指輪つけたまんまなんですよ?なんでタボおばさんはよくって、私たち新人はだめなのかって訊いたら・・・」
「何て?」
「あたしのはホンモンだからいいのって。」

陽子はここで元オリンピック日本女子バレーボール強化チームの体育会系の爆笑を抑えられなくなった。

「私のだって彼氏からもらったホンモンですって言い返した?」
「みんなの前で言うことじゃないですよね。プライベートは、職場の皆さんには関係のないことですから。でも他人のリングを嘘もの呼ばわりして、自分のだけは純金でホンモノみたいな言い方はちょっと、信じらんないって感じでした。あとで、あれはみんなもおかしいって言ってました。」
「で?他の子たちは指輪は?」
「みんなは外してました。外してネックレスに引っ掛けてました。でも、私も外さないと、あの、クビなんでしょうか?」

タボが洗った事務所用のモップを戻しに入ってきた。支配人室などなく、事務所の仮眠室の横に支配人の席があるだけで、モップはその席の脇が置き場所に決まっていた。タボの日勤の最後の手順で、ほぼ毎日、その日のレポーティングも兼ねた立ち話をしてから帰ることになっていた。長年喜怒哀楽を共にしてきている二人の間では目を合わせる必要も、空気を読む必要もない。

「じゃあ、陽子ちゃん、あたしこれで今日はあがらせてもらうね。」
「はい。お疲れさまでした。あ、そうそう・・・」
「何か?」
「三男坊がさ、大学で応用化学科なんだけどさ、なんつってたかな、アンタこの前訊いてたこと息子に相談してみたのよ。ちょっと貰ったメモ見る。」

新入社員とタボの間の空気は固体化して動かない。

「では、私はこれで失礼し・・・。」
「あ、いいの、いいの。すぐ終わるから。あなたもちょっと待ってて。」

陽子の制止を予期しなかった新入社員は仕方なくウルフカットの襟足を指で摘まみながら、支配人のスクリーンセーバーになったままのデスクトップで回転しているホテルのロゴを目のやり場にしていた。そうか、スクリーンセーバーでサウンドは紐づけできないのだっけ。みんなが中座して誰もいないオフィスでスクリーンセーバーやロック画面のデスクトップがそれぞれ別の音を鳴らしていたらうるさいし、意味ないし。
タボは堂々と支配人陽子の方を直視して待っている。その視線は間に立つ新入社員の肩越しを素通りしている。

「何か訊いていましたっけ?」
「ああ、このメモだ。『王水』。」
「はい?」
「『王水』は王様の水の意味で、ケーニヒスバッサーの直訳である。濃塩酸と濃硝酸とを3:1の体積比で混合してできる。当初は透明だがすぐにだいだい色の液体となる。普通の酸では溶けることのない金も溶解できるし、温めればプラチナも溶かすことができる。金箔を溶かしたり、99.999%の金塊を製造するときにも実用されている。硝酸がまずわずかな量の金を溶解して、金イオンAu3+を形成・・・まあ、とにかく、この王様の水でいざとなればアンタの金の指輪も溶けるということらしいわね。でも、どうやって・・・」
「指、突っ込めっていうの?エンサンとショーサンの混ざった中に?指を間違って切られるのもカンベンだけど、わけのわかんない液体もパス。」
「指も溶けちゃうね。なんかだめそうよ、やっぱ。そうメモにも書いてある。」
「人の指、なんだって思ってらっしゃるんです?」
「だってアンタがいつも痛い痛いって言ってるから。心配してどうしたら外せるか考えてあげてるのよ。」
「それは、それは。有難うございます。でもね、ショーサンはちょっとね。痩せる方がまだ楽よ。」
「あのさァ、何年かかってんの、痩せるのに?」
「これでもダイエット心掛けてんのよ?」
「へェ、そうなんだ?指が細くなれば痛くなくなるんでしょ?ダイエットしても痩せない?てことは、仕事に余裕がまだあるみたいね。なんならメイクのヘルプを減らしてあげようかしら、タボちゃんのために。ねえ?」
「これはね、言いたかないけど、陽子ちゃんのせいよ、ストレス太り。」
「冷蔵庫に賞味期限切れ間近のビール三本タボちゃんにとっておいたけどダイエットじゃ他の子にあげなきゃね?」

タボは冷蔵庫を開き、スーパードライ三缶を取り出してひざ丈のショッピング用ローリングバックにそそくさと入れ、振り返りざまに新入社員を初めて一瞥して、ウインクをしてから飄々と退室していった。キャスターがフロアーで擦れる不規則な音が遠ざかって行った。

「タボさん、リングが取れなくなっちゃったんですか?」
「とにかく多忙な仕事の方がいいですって言って入社してきたの。前の職場が甘すぎるって。余計なことを考える無駄な時間はいらないんだって。だからタボちゃん。もう何年になるかな、18年目かな、今年で。あの頃だったら痩せてたしね、外せたのかもしれないけどね・・・。」
「それでタボさんなんですか・・・朝はパントリーで朝食を配膳されて、夜も今までメイクもされて。ご家族いらっしゃらないならわかりますけど。」
「タボちゃんは一人ものよ。」
「え?だって結婚されているんですよね?」
「亡くなったのよ、ご家族全員。35年前、日航機の事故で。」

珍しく支配人陽子の顔から明るさが消えていた。卓上のマウスに触れようとしていた掌が宙で止まっている。2020、2019、2018、2017・・・。右掌を宙で上下に揺らして指で西暦を遡行して数を数えていた。スクリーンセーバーがストーム色のスリープ画面に移行した。陽子の顔が暗転したディスプレーに放射霧のように反映している。

「タボちゃんはね、外さなくていいの。外せないのよ。きっと。」

それぞれの事情に色合いと重さの違いはある。きっとほとんどが時間のなかで色褪せたり、軽くなってゆく。だが中には時系列を越えても消えないものもある。消せないものもある。本人に因数分解できずに色濃い重い記憶として残るものを他人が解決できるはずもない。陽子が今開いた副支配人万智が作成したPCのExcelの社員データでVLOOKUP関数を使って検索できる事情もあるが、X軸の氏名の右のY軸に性別・生年月日・入社年月日・現住所・扶養控除申告書の提出の有無と甲乙丙の入力欄・婚姻など個人データの列がいくつも横に並ぶが、さらに全く新しい列を挿入しなければならないこともある。既存の人事評定科目に当てはまらない「事情」の列。

「いえ、私は結構です。でも、有難うございます。失礼します。」

薦めたスーパードライを固辞して今帰って行ったウルフカットの亜実ちゃんのためとりたてて新規の列を挿入する必要はない。要するにこのホテルにはここなりのかなり広い許容範囲で事情を呑み込む女子力がある。事情を忘れる時間を提供している。その時間に身を浸すつもりになるか、身を浸す必要があるか。毎日、事情は自宅に置いて皆出勤してくる。置き配のように支配人席に事情を置いて行ってもらっても、困る。あの亜実ちゃんは、ココアブラウンのウルフちゃんはどうなるかな。

基本給はグランホテル群の足元にも及ばない。その代わり、勤怠評価や職務職能給・職務職責給に加えて、満室手当や深夜手当、月間目標占有率達成手当やホテル会員新規獲得手当などいう細目に分化された実績に応じて個人またはチームに副次報奨金が設定されている。配偶者控除を受けられるように103万円以内に収めたい主婦のパートより、自分の年金を積み上げておきたい女子や、自分の面倒をいったい将来誰が看てくれるのかという不安を持った45歳手前の独身で何ら技能資格のない女子がメイクの正社員に応募してくる。例えばタボのように。自営のため厚生年金に加入していなかった世帯主と子供を同時に若くして失った寡婦をこの国の社会保険制度はサポートしているとは言い難い。だから最低限自分の社会保険を少しでも自分で確保するしかない。でもね、ウルフちゃんにはまだ遠いこと。ホンモンの指輪が目下重大な事情であるウルフちゃんには。

事情があるから応募してきていることは言わなくてもわかっている。要はそれを何とかする気があるなら、業務に没頭するのが一番の方法論だと陽子は今でも思っている。支配人陽子は仕事に救われたと思うことが頻繁にあった。事情を忘れていることが多いほどの仕事量で、多忙とはこのことだといつも思っていた。タボのネーミングをしたのは自分だったが、それは誰も陽子をそのニックネームで呼んでくれなかっただけで、本来自分のことだと思っている。
サービス業という流れ続ける川の只中に身を投げ入れるだけで、どのみちすぐには解決のない事情も、無理なくやり過ごすことができる。知らぬ間に時間が流れ、川の中の確執という岩が砂になる。家族を失ったタボの事情も、もちろんウルフのホンモンの金の指輪も。コマ送りのように陽子は、宿泊客や社員の数々の事情を、流れに乗せるだけでよい。そして、水は絶やさず、急流にならぬように。そうしてきた。

社員も日本人とは限らなくなってきている。一昔前なら夜の街や不法労働のイメージに直結したアジア諸国から、最近では正規の若い女性就労者が求職してくるのが当たり前になってきた。アニメの影響か、ネットの力か。日本大好き、「ニホンゴマッタクモンダイナイネ」レベルを凌駕する、支配人陽子が納得ずくで採用できる女の子が現れることがある。リムもその一人だった。

「リムちゃんさァ、ニッポンの昭和って知らないでしょうが。」
「知ってますよ。」
「じゃ、どんなの?」
「会社命の支配人。このバカでかいコピー機。このハンコ押すとこ
だらけのリンギショとか、絶対座っちゃいけないフロントとか、この古い書類だらけの狭い事務所とか、だって椅子でこう伸びをすると手が壁にぶつんですよ、ホラ!こっちに伸びすると、このコピー機がぶつ!まだたくさん言えますけど?」
「手が壁にぶたないの。ぶつかるの。コピー機にぶつかるの。」
「それにフロントの女子のこのピンクのセーフク。昭和の頃あこがれの職業だったバスガイドさんたちのセーフクに似てませんかァ?この前テレビの特集でみた・・・。」

リムが立ち上がって掌を返してバスガイドのあちらをご覧くださいポーズを取る。

「支配人はいいですね、スーツだから。この前、香港の団体の男性のお客さんに何て言われたか知ってますか?」
「何て?」
「ピンクのMao Suitsかって。」
「マオスーツ?」
「中国の人民服の中山装のこと。」
「ありゃ。そう見えるのかしらね。じゃあ、どうせだったら肩パットの上に金の房が付いたエポレットでも着けようか?トップガンのトム・クルーズが着ていたハードタイプの肩パット。かっこいいじゃない。」
「やめてください。」

十子がフロント中央のPCに人民服を着た中国人家族のセピア色のアンティークな肖像写真を検索して映し出していた。

「胸ポケットが二つあるのがよくないのかもしれませんね。私は機能的で気に入ってますけど。」
「ほらね。リム。気に入ってる子もいるのよ。客受けだっていいのよ、結構。」
「まあ、お客様、ほとんど昭和生まれですし。」

リムが人差し指を十子の方に向けて、その発言がまさにそのりだとJRの車掌の指差喚呼さながらユーゴットイットの仕草をする。座ったままのけぞり、わざと後頭部をうしろの壁にウリウリ押し付けていた。

「そう!いちばんショーワを忘れてた!お客様!それと、トム・クルーズだって、もうアメリカのショーワです!」

陽子の眼圧に押されてリムは姿勢をそろそろと元に戻し、その日リムに課せられていたA勤務の会計事務に戻った。十子は人民服のサイトを閉じ、空間除菌用の業務用弱酸性次亜塩素酸水のネットショップの検索を始めた。マウスを使わず、ショートカットキーでWeb内を移動するのは難儀で、慣れないままタブキーを連打せざるをえない。カーソルが行き過ぎるとShiftしてTabを打って戻らなければならない。時短のため、マウスからキーボード主体の入力事務が求められていた。ほとんどの技能をこなす十子だが、まだ慣れず、カーソルが画面のどこかに飛んで消えて見当たらない。

「でもエポレットはちょっと・・・」
「そう?」
「昭和のチンドン屋になります。」

陽子はすでにどうでもよいことを聞き流すモードへ切り替えに入っていた。スリープ画面を起こして本社から送られてきているコロナ関連記事のリンクをクリックして読み始めている。中国人は蝙蝠まで食べるのか。象の鼻先や熊の左の掌、猿の脳味噌とか。アジア各国の断崖絶壁の穴燕の巣を命を賭けて採り、高く売る。バブルたけなわの新入社員の頃、同期と一緒に会長に銀座の高級中華レストランに呼ばれた。巣作りの際の燕の唾液に含まれるシアル酸が美肌を作りアンチエージングと抗ウイルス効果があるという説明がメニューに書かれていた。燕の巣ならもう十年近く実家の軒下にある。縁は白く積年の糞で固まっていた。燕の巣やフカヒレぐらいならまだ辛うじて抵抗はないが。蛇やマムシあたりになると食欲がなくなるのが普通ではないのだろうか。武漢の市場の映像で見たことのない爬虫類が食用で売られている実態は確かに観た。食べたことのない、食べる気にもなるはずのない生き物で溢れかえっていた。籠の中と地べたで蠢いていた。

「ねェ、蝙蝠なんか、だいいち気味悪いじゃない・・・。」

リムが中国人であることを思い出してそこまで声に出して言って、陽子は口を緘した。よく考えると別に中国だけではない。ドイツにバレーボールの強化試合で遠征したとき、肉屋の店先に豚の頭が置かれていたことを思い出した。豚の足も。ゲルマン民族が狩猟民族であることを思い知った。この肉食の民族にとって断食とは謝肉のことであって、肉を絶つことが普通の人には耐えがたいことなのだと、カーニバルは、ラテン語でcarnem levareという肉を除くという意味で、村人が集まって豚を屠殺して皆で食べることが最高の楽しみであった民族にとって、年に一度の謝肉は神聖な儀式なのだとドイツかぶれの監督が言っていた。そもそも肉食を避けてきた我々の食文化と肉の立ち位置が全く違う。この豚の頭は、この民族にとって最も美味しそうなものなのだ、と。

「一体誰がなぜ最初にカニとかロブスターとか食べる気になったんでしょうかねェ・・・。相当飢えていないと・・・。だいたいどうやってカニの足とか剥いたんでしょう。中身があるってよくわかりましたよね?」

十子は画面が陽子に見えるようにモニターの回転台を回して飛沫防止ビニールカーテンのamazon primeのnet shop画面を手慣れたマウスの方でスクロールしてゆく。シートはそれほど高価なものではない。

「そうね、貝だけじゃおなか空くでしょうね。」

十子のキーボードに脇から腕を伸ばし、陽子はタブキーを押しっ放しにしてショップのサイトの最下段の飛沫防止透明ビニールシート4.5 x 6.0 mのところで止める。Tab操作は先週の支配人研修で覚えた。うまくいった。

「飢えているからってばかりじゃないかもね。特に今の時代。この前息子が揚げたゴキブリを食べる日本の女の子のYouTubeを見てたわ、そういえば。」
「げ!」
「了解。そのビニールシート四枚発注していいわよ。頃合いを見て、みんなでうまく吊るしましょ。あと業務用アルコール除菌液もお願いね。」

amazonからは発注翌日にシートは届いたが、実際に設置したのは実は年を越えて二か月近く経ってからだった。いつまでも十子の提案は棚上げされたままだった。ウイルスなどに集るのは軟弱者、ニッポンはダイジョウブという陽子の不屈の大和魂はなかなか折れなかった。

「まさかうちの方まで来やしないわよ。中国やヨーロッパの話じゃない。」
「中国や台湾の団体客は受けるんですか?」
「予約来てるの?」
「じゃらん経由でまた入ってます、来週。」
「今、稼働率は?」
「今月は今95%前後です。」
「この前のなんていったっけ、そうそうSARSって流行ったじゃない?あれも中国だっけ?リム?」
「あれは広東州とそのあと香港。」
「こんどのコロナは香港も?」
「何か香港と台湾は封じ込めに成功しているってCNNで言ってましたけど。」
「そう。じゃ中国の業者だけ切ろうか。痛いけどね。SARSの時ときっと同じよ。いずれ終息するから。」
「あの、例のシート来てますけど・・・。」
「濃厚接触しなければいいらしいわよ。」

リムが後ずさりをする。

「濃厚?セッショクしない?」

十子が笑う。明らかに中国人リムの鼓膜を通じたカナ音声と、脳が返した意味とが符合せず、リムの見開いた両目から疑問符が飛び出している。語彙にない。十子にもその違和感はよく理解できた。どこの誰が得意になってこの奇天烈な造語をしたのか知らないが、マスコミもこのおとなの隠語の語呂合わせが市民権を得ると確信したらしく多用している。なるべくなら人と人が1m以上の距離を確保することが望ましいとする曖昧な新型コロナウイルス感染症対策本部のアドバイスとこの新語のメタファーの乖離が国民に対する分かりやすい情報提供や呼びかけの「標語」に最適だとニヤリとしたに違いない。セップンもセツゴウもコヅクリもノーコー。子供がノーコーって?と訊いてくるに違いない。ママが子供を引き寄せて抱きしめる。

「こういうこと!」
「(ぎゅっと抱き締められたまま)え?このだっこもだめなの?」
「そうよ、だめなの。でもママとならOKなの。」
「ふーん・・・。でもならいいや。」
「そう。うちには関係ないの。」

十子の説明を受けて、リムは大げさに見開いていた両目をほぐしてからウインクを返した。

「ダンナさま、きっと悲しむ。」

陽子はツベルクリンを打った世代は免疫があり、感染リスクが高いのは喫煙者に限られるというネット記事を拡大コピーしてフロント・スタッフ用の伝言プレートに貼り出した。

「取り敢えず本社からマスクが届いているから、マスク着用でフロント対応することに理解をしてもらう注意書きを作りましょ。シートはわかるけどうちには怒り出す客もいるだろうからねェ。特に常連さんや『住んでる人』たちの反応が目に見えるしね・・・」
「キトウさんなんかシート引きちぎりにくるかも。」
「何じゃ、これは!ワシがコロナに感染しとるっちゅうのか‼ってね。」
「そうよねェ。ひっぺがしかねないわね。」
「でも、手をさわさわされないですみますよ。仕切りがあれば。ほんと気持ち悪いんで。」
「それ、十さんとマチにだけ。キトウじいが手を握りたがるの。わ
たしはされないんで助かってまーす。」
「セクハラ対策として、フロント・スタッフに結婚指輪や彼氏いるわよリングの着用を許可して頂けませんか?」
「はめてたって、あのひとはさわるね。きっと、十さん、好きね。」
「(身震い)勘弁してほしいです。」
「これからは、なるべく手はそれでスプレーしときなさいよ。」
「とっくにしてます!」

まだ正月気分が抜けきらない頃、フロアーの自動販売機で購入したビールを飲んでいたビジネスマンたちの輪から「えー!?ほんとかよ!!」という驚きとまさかというトーンの否定嘆が沸き上がっていた。ポテトチップスと柿の種を取り合う手が止まって、全員が大型テレビスクリーンを注視していた。

「武漢の交通機関閉鎖。新型コロナウイルス、死者17人」

12月に新型ウイルスの可能性を指摘していた8名の中国人医師たちのチャットが閉鎖され、眼科医李文亮氏も警察当局から「社会秩序を乱す」「デマを流した」などと厳しい譴責や訓戒を受けたことも併せて報じられていた。突然リムがフロントを出て、客に混ざって同じ画面を食い入るように凝視していた。丁度リムと交代するため休憩から戻ってきた副支配人の万智がフロアーを通りかかり、リムを見つける。客の群がっているテレビからリムを引き離す。

「どないしたん?顔青い。中国はえらいことみたいやね、コロナで。心配なんや?」
「わたし、有給休暇。あさってから。」
「まあ、おうちで休んでなさいってことやね。」
「それ、困ります。フライトも取ってます。」
「飛行機?どこ行くん?」
「お母さんに会いに行きます。わたし一人でも行く。」
「あんたまさかこの時期に中国へ⁈」
「春節ですよ?日本のお正月だって仕事で帰れなかった。わたし今度は絶対行きます!」

リムは行けなくなることを惧れていた。このところのコロナ禍の拡大に一番やきもきしていた。理由があってずっと離れ離れの母親と国の正月には帰る約束をしていた。二十五時間勤務の中で許された二時間の休憩時間が二回あるが、このところリムは遼寧省の母親とFace Timeで食事休憩の時も、ビデオ通話をしていた。中国語に日本語の混ざる親子の会話から内容が同じ狭い休憩室にいるスタッフにも若干は推測が付いた。もうすでに武漢市へのアクセスが制限されていて、今後どうなるかわからないから、念のため地元警察から通行許可証の発行を母親が申請してみること、逆に特に日本再入国が却って大変かもしれない等々。

リムの真顔と静止して瞬きのない直視。万智には結婚していた大阪の商社マンの夫と10年住んでいたカリフォルニアで中国人の知り合いも多くできた。だから万智には、リムの決心の度合いがすぐに感取できた。日本人なら、一瞬相手の視線を捉えて「本気よ、わかるでしょ」と意をこめてから、目をそらす。「それがわからないなら、仕方ないわね」。そしてそっぽをわざと向く。リムはずっと副支配人の万智を見ている。中国人の意思の明示。ここでおしまい。ここからは私の「我」で譲歩はない。あなたの領域ではない。その目はシフト表作成が職責の万智から、リムの中国渡航の件はすでに了承したと支配人に言ってほしいと明白に切願していた。

「コロナ、流行ってんのとちゃうの?封鎖されてへんの?」
「お母さんたちは遼寧省で湖北省から2000キロ離れてるから。電話でも全然大丈夫ってお母さん言ってる。」
「2000キロかァ。中国は広いしな。気―付けてね。」
「有難うございます!」
「帰ってくるんね?帰ってこれるんやろね?シフト変えへんよ?」
「死んでも、ぜったいに帰ってきます。ダンナさま、悲しむ。」
「何言っとんねん。死んだら帰えれへんやろ。リムの死体が帰ってきたかて、どないするん。」
「ぜったい死にません。」
「当たり前よ。あんたが帰って来ーへんかったら、死ぬんはうちらやで?なんせ、ギリでやってんの知ってるわよね?リムなしでは回りません。頼みます、元気で戻ってきて頂戴。支配人には言っときます。」

リムが中国に発った直後から、濃厚接触とは何かなどと嘯いていた他人事が、武漢市の都市封鎖がなされ、横浜で豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の集団感染が毎日のように報道され、防護服を着用した物々しい検査官や医療従事者がフレームが全く見えなくなるまでテントで覆い隠された巨大なフロート・ポンツーンを潜って船に出入りしている非日常的な光景や、特別チャーター機で武漢市から邦人が帰国し始め、医療先進諸国と見られている遠いヨーロッパのイタリアのミラノ周辺での爆発的感染拡大や死者の累積、武漢市の病院内での阿鼻叫喚の地獄絵がニュース映像として映し出されてから、その事なかれ主義が一変した。認識が甘いかもしれない、と。中国に出張していた亭主は大丈夫か?うちは本当に関係ないのか?感染したら、すぐ死ぬらしい。武漢のコロナを発見した若い中国の眼医者まで隔離された。看護スタッフが防護ゴーグルをしたまま階段の下で蹲っていたぞ。

マスクとトイレット・ペーパー、消毒用液や漂白剤がマツモトキヨシの棚から忽然と消え去った。昼のワイドショーで納豆が免疫に効くと取り上げるとサミットから納豆が消え去った。2万円のマスクがネットで販売され、中国産の携帯用スプレー容器がダイソーの品揃えから消えた。中国に発注していた大学の卒業アルバムを入れる不織布バックの納入が不可能となり、卒業式そのものの実施が「三密」を理由に疑問視され始めた。「クラスター」と「三密」の新成語が「濃厚接触」を上塗りして各都道府県知事や厚生労働大臣や新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の構成員たちの口から毎日ことさら発語されるようになった。

「個人タクシーが屋形船で新年会やって、感染しちゃったらしい。」
「酔っぱらって抱き合ってたんとちゃうの、おっちゃんばっか。」
「密室で濃厚接触。」
「まァ、あかんやろな。」
「聞いてるだけで唾が飛んでくる・・・。」
「匂ってくるね、なんか・・・」
「マスクなんかほかしとるに決まってるしね。」
「とーぜんでしょ。」
「飛び散って充満しとる、きっと。」
「やっぱ、空気感染するのかもね。」
「たしかに・・・。」
「クルーズ船で感染してるって人たちさ、他人同士やろ、別に屋形船のおっちゃんたちみたいに唾とばして、いちびっとったわけとちがうやろし。」
「だとするとマジやばいかも、コロナ。」

接触しなくても、場合によって飛沫がエアロゾル化して空気中を浮遊して感染したと思われる症例が報告された。また陽性者で無発症者からの感染も感染経路の一つとして浮上していた。病院・高齢者介護施設・障害者施設・ホットヨガやフィットネスクラブ・パチンコ店・夜の街や飲食店でのクラスター発生が次々に公表されはじめ、法改正なしでは不可能と思われていた日本でのロックダウンの蓋然性が少しづつ現実味を帯びてきていた。海外からの帰国者や一時帰国者のPCR検査が義務化され、陰性者でも自宅またはホテルで二週間の検疫期間として自主隔離が課せられ、再検査後陰性を確認出来て初めて日常生活に戻れることになった。

「リム、つかまった?」
「昨日の便で羽田に戻ったようです。」
「で?」
「PCR検査で検体を取られて、やっと今朝になって羽田のホテルで陰性だって知らされたらしいです。入国制限対象地域からの帰国者なので、二週間自宅で自主隔離する必要があるって。『ダンナさま』が車で迎えに来てくれたって。」
「ったく。なんでこんな時中国行きを認めちゃうの。でもよかった。」
「シフトは暇な他店からヘルプを回してもらって埋めますから。リムは有給あと8日残ってますし?どないされます?本人はそれでもしゃーないけどって。里帰りを許してくれたしって。そうや、それ
から一応みんなにたくさんお土産買うた、支配人のためには月餅を
仰山買うたって。これ、Lineで月餅の写真届いてます。『消毒済!』
のスタンプがほれ、チカチカと・・・。」
「(月餅の写真をチラ見して)病気休暇制度でやってあげて。元気で戻ってくれてよかった。それより浴びてきた菌を徹底的に洗い流してから出勤してって言っといて頂戴。」
「ですよね・・・。」

陽子は読み終わった本社から参考資料として添付されてきた「新型コロナ治療薬・ワクチン開発の進捗に関して」と題されたある旅行会社の社内向けレポートのコピーを万智たちに渡して、事務室に入っていった。

【まず治療薬に関しては治験は始まったばかりで、まだ承認されるまで相当な時間を要するであろう。いくつもの既存薬が候補として各国の薬品会社から公表されてはいる。関節リウマチ薬のBaricitinibという抗炎症剤やデキサメタゾンがサイトカインストームという免疫細胞の暴走による肺などの健康な細胞の誤破壊を抑制する等々。問題はCOVID-19ウイルスに感染している現在の患者たちにその薬品を投与した治験データがまだないことだ。
次にワクチンに関しては、米PhizerやModerna、Jonson&Jonson各社や英AstraZeneca社、中国のSinopharm社等が着手したことを発表はしている。目下、ドイツBioNTechs社のシャヒン夫妻のmRNAを用いたがんの免疫療法をPhizerが後ろ押しして開発中のワクチンが先行していると言われているが、まだ初期段階で未知数といえる。
尚、日本国内の内製化はまず不可能と考えている。日本脳炎やインフルエンザで死亡例が出て、メーカーも国も敗訴してから、新規核酸送達技術を用いたワクチンの開発に主体的、先駆的に着手しようとするメーカーはないと思われる。石橋を叩いてからの参加となるだろうから、まず目先は期待できない。国も後押しは決してしないだろう。
日本では今週初めに新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の意見として政府から『不要不急の外出を控えてほしい』旨の要請が国民になされる予定である。当初は要請でツーリズムを法規制するものではないが、緊急事態宣言や東京首都圏の都市封鎖も大いにあり得ると考えられる。】

「不要不急ってさ、要するに、うちらにどないしろって言ってるのかしら?」
「フヨーフキュー?」
「仕事以外は家を出なさんなってこと。」
「私は二週間フヨーフキューでした。ダンナさまといっしょで、フヨーフキューはよかったね。」
「リムちゃんね、やっぱ有給削っとくわ。」

陽子が支配人席でうなっていた。本社と電話すると大抵少しうなるのだが、明らかに皆に話しずらいか、不平反発が予見される本部の通達があると、いつもうなり声が断続的に何回にも分けて聞こえてくる。内容を改めて思い起こす度に、また繰り返して、同じようにうならざるを得なくなるのだろう。陽子はまだうなっていた。フロントに立っているリムと万智と、今チェックインをしている常連客の富田にもそのうなり声がバックヤードの奥の方から聞こえてきていた。

富田はフロントが『住んでる人』と呼んでいる客の一人で、通称トミーさん。「さん」付けは珍しく、従業員受けが良い客の最高ランク付けと言ってよい。有名アニメの例えばセーラームーンなどのシナリオライターで、パントリーのキッズコーナーの窓枠に並んでいるセーラーマーキュリーやプリンセス・セレニティのドールはこのトミーのホテルへのプレゼントだった。本社の年に一度の全館チェックの日にだけ、支配人が段ボールに入れてそそくさと隠すが、ほぼ圭太という男子フロント・スタッフの宝物になっている。まかり間違って宿泊客の子供が手に取って遊び始めると、圭太の額に汗が浮く。こいつらはいずれレアものとなってプレミアムがつく。いずれネットに出せるだけの値打ちものになるものだ。時々窓際に立って腕を組んでいるが、外を見てアンニュイと哲学しているわけではなく、ダル美少女戦士セーラームーン、セーラーちびムーンをただ愛でるようにじっとみつめているのだった。

「どうしたの、支配人、なんか奥でうなってますね。またなんかあったかな?」

富田はフロント・カウンターを抱え込むようにして乗り出し、奥の事務室を窺うふりをする。万智が支配人席の方を身をそらして覗く。陽子のうなり声は止まず、事態の重大性に気づいたら早く事務室に来なさいよ、というシグナルにも解釈できた。

「富田様、今回は三週間のご滞在のご予定でしたね?」
「今回はね。俺のことはいいから、支配人のとこ行ってあげなさい、あれは呼んでるよ。」

デスク上のトミーのチェックイン・プロトコル一式をリムの方に押しつけて、万智は事務室へ向かった。

「政府が軽症の感染者と感染の疑いのある帰国者や感染していても無症状の患者を受け入れるホテルの一棟貸しを打診して来てるんだって。内密に。」
「え?うちにですか?」
「うちだけじゃないらしいけど・・・。」
「そやかて、うちら病院と違いますから、無理ちゃいます?」
「その病院の病床が都ではもうじきに足りなくなるらしいの。グランホテルたちは当然断っているに違いないし、でシングルルームの多いうちみたいなところに白羽の矢が立ったんじゃない?」
「うち稼働率は首都圏でトップクラスですよ?もう予約で相当埋まってます。それをキャンセルなんかできしません。一般のお客様の予約が少ないほかのとこを一棟貸しされたらどないです?」
「成田と羽田はもう今月末から二、三億円で契約したらしいの。」
「スタッフは?」
「正規は在宅に切り替えて、基本給のみ支給で、臨時とバイトはとりあえず休職扱いか辞めてもらうらしい。ホテル側からは二名常駐で設備のメンテナンスだけに対応して、軽症感染者受入の場合は、対応は日中に常駐する医師と24時間態勢で看護師チームが全部やるそうよ。清掃はうちが自前ですることになるらしいけど、館内や客室の消毒はプロの業者に外注するって。」
「食事は?」
「自衛隊や政府の指定業者が運んできて、それをドア前に配るって。」

万智が支配人席の後ろのサッシをこじ開けた。防犯のためだけではなく、冬場には氷柱が垂れることもあるほどの冷気を遮断するため、わざと内窓インプラスの向きが入れ違いにはめ込まれたその二重サッシを従業員が開けることは滅多になかった。頻繁にタボたちメイク・スタッフが複層ガラスとフレームをスプレーして掃除するためか、その洗剤がサッシの三日月錠に固着して通常の指圧では回らなくなっていた。それを一気に音を立ててこじ開けた。

「ちょっと、寒いじゃない。」
「支配人。頭冷やしてください。」

三峯神社の古い護符の火防盗賊除け御眷属拝借之札を結わいて垂れている長い紅白紙縒の帯紐が、事務室に突如流れ込んできた冷たい風に揺れて護符の表面をなぞってカサカサと細かい音をたてた。オーナーがホテル新設開館の日に持ち込んだ護符で、獅子や狛犬ではなく、一対の狼が墨で描かれていた。右は細長い口を開け、左が口を閉じた一対の阿吽の狼の墨絵。
お釈迦様の足元の二頭のライオンは、エジプトでスフィンクスになり、日本では清少納言の頃、木彫りの獅子と犬だったものが、この聖獣はさらに時代と各地を巡り、宗教を越え、三峰山では神社の石彫りの一対のニホンオオカミになった。別の地ではキツネ、牛、兎に変身している。

拝借之札だから毎年三峯神社に返納して初穂料を納めて新しい護符を改めて授かるべきなのだろうが、その時間はホテルのスタッフにはなく、「俺は送りオオカミとして送っただけだから気にするな」というオーナーのダジャレと、絶滅危惧種のニホンオオカミは絶滅したのでホテルに居ついてもらってもいいだろうという初代支配人の同語反復を根拠に、爾来事務所の神棚に立てかけてある。その神棚には、十子がスペインで買ったマリア様の木彫りの小像やリムが沖縄から持ち帰った極彩色の玉乗りシーサーのミニ置物と圭太のブリキ製の鉄腕アトムのフィギュアも並んでいる。各自の八百万の神が祀られている。

「その常駐の二人の一人にはなれしません。すみませんけど。」
「どうして?」
「うち、おばあちゃんもまだおりますし、持ち帰ってコロナ移して万が一往生されたらどないします?もろ後期高齢者、尿アルブミンが300近辺でトーニョーセー・ジンショーのケンセー・ジンショー
第三期で、透析一歩手前です。きっと死んでしまいます。うちのせいで。」

荒川の岩畳の谷底から渓流の音が聞こえてくる。谷風が運んでくる。山の上はまだ明るい。風は谷山に沿って明るい方へ抜けてゆく。岩は凍るのだろうか。川の流れから生まれた風は、両岸の河成段丘の剥き出しの岩盤のトンネルを抜け、凍った結晶片岩の秩父赤壁をせり上がって、青空に吹き抜けてゆく。山に陽が差す真冬日。白亜紀からこうしてプレートは水と風に浸食され続けている。流れの音ではない。風の音。風自身の音。水と岩と山の樹々と幾億本の枝を抜け、流れが呑み込んだ生き物すべての気配を内包した太古の昔から聞こえていた風そのものの音。

「それはそうね。」

陽子は万智の方ではなく、ずっと小刻みに護符の古紙を擦り続けている帯紐の音のする神棚を見上げたまま風の音を呑み込むように聴いている。陽子に静けさがコトンと落ちた様子が万智には分かった。あのサッシ窓を開けたのは良かったかもしれない。

「十ちゃんを呼んでくれる?」
「はい。でも、十子だって困ると思いますよ・・・?」
「そうじゃないの。」

フロントではトミーとリムが小さな口論となっていた。万智が割り込む。

「どないされました?」
「いや、まァ無理なら仕方ないんだけどさ・・・。」
「何がでしょう?」
「いや、俺もさ、もう一見じゃなくてさ、長い客なんだから、特例があってもいいんじゃないかって思うわけですよ。」
「今回は3週間でしたよね、いつもありがとうございます。」
「結構今回は本や資料を持ち込むし、それを動かしてもらうと仕事がやりにくくなっちゃうんだよ。ほら、こう右手を伸ばすと池田理代子のベルばらの第三巻28ページ、左手を30度後方に伸ばすと吉田秋生のBanana fish、45度には魔夜峰央のパタリロとか、その日その日の配置が精密な分度計のように決まっていてね・・・。」
「狭い部屋でご不便をお掛けします。」
「その狭いのがいいんだけどさ、俺の仕事には。ベットがだから手のすぐ届く資料棚なわけ。」
「絵コンテがテレビモニターにもセロハンテープで時々貼ってありますよね?」
「(笑う)あァ、そうね、ストーリーボードね。部屋のテレビも大きいのに買い換えてくれると嬉しいかな。もっとたくさん張れるし。」
「触らないようにメイクには言ってあるはずですけど?毎日のお掃除はバスルームだけ。何か手違いがありました?」
「毎週日曜日に部屋を変えて引っ越しするのをもう勘弁してほしいんですよ、できれば。引っ越しのたんびに、資料を慌ててまとめて、探してまた広げてというのがちょっと面倒なんですよ。」
「タボさんに日曜日いつも追い出される?」
「そう!入って来た途端、窓とドア全開にして、この前なんか俺がモタモタしてたら、シャワーヘッドをこっちに向けて脅された。」

笑いながら支配人の陽子も事務所を抜けバックヤードからフロントに出てきた。少し鳩胸にして黒スーツのジャケットの襟を両手で交互に伸ばしてから富田に目礼を送る。丁度十子が背後に来たので、リムと交代するよう陽子は後頭部を軽く振って指示をする。

「富田さんにはれっきとしたご家族の住む、帰るご自宅がおありですから当たりませんけど、今流行のアドレスホッパーとかノマドライフの方の中には半年の契約書に捺印を押して、まず二週間分ほどの前払いだけして、住民票を移してホテルの部屋を固定したまま行方不明になる方が特にこのところ業界で問題になってまして。その皆さんがそうだというわけではありませんけど。レアケースとはいえ、ホテルとしては大変問題です。」
「へェ。そんなこともあるんだ?」
「部屋付で個人宛の住民税の普通徴収の税額決定通知書やら国民健康保険の納付書やら、消費者ローンの督促状なんかも次々届いたそうで・・・。そうなるとうちの系列だけでなくホテル業界全体のUG情報に登録されることになります。」
「ユージ―?」
「Undesirable Guestのことで、宿泊頂くのに好ましくないお客様のことです。」
「なるほど。わけあって住民基本台帳にホテルの部屋を住民登録して、しばらくして消えちゃうわけだ。」
「うちは前金ですから損失はある程度コントロールできますが、やはり一週間で区切るということとお部屋の固定はしかねるという本社の方針ですので、なんとかご理解いただければ。」
「でもさ、支配人、俺の素性は知ってるわけだし、住民票も移してないしさ、今3週間分全額前払いしますしねェ・・・。」
「わかりました。2週間は同じ部屋でステイということで。3週間目には別のお部屋に移ってください。」
「あ、そ。有難う。ちょっと出世したって感じかな。まァ、セーラームーンの三日月の魔法の杖が利いたぐらいかな。残念ながらまだ満月って感じじゃない。」
「十ちゃん。」
「あなたの腕時計、たしかムーンフェーズ見れたわよね?」
「はい。」
「今日は?」
「月齢2.5の三日月です。」
「富田様。三日月で正解だそうです。」
「ちょっとさァ、合ってんのかなァ、十ちゃんさんのその時計。」
「さァ・・・。時刻はあってます。」
「でも2週間ですからね。ご了承ください。」

陽子は富田の後ろ背に声掛けして念を押した。横に居る万智と十子にも言い聞かせるつもりでもあった。陽子には2週間の特例に根拠があった。3週間ではない。却ってこの先2週間は客室移動がない方が有難い特殊事情があることを二人はまだ知らない。富田は玄関ホールを横切り、パントリーのキッズコーナーの窓際まで恐らく漫画本の詰まった重そうなトランクを引いて行った。立てかけてあったセーラームーンSピンクムーンスティックを手に取り、振り返りざまにその魔法のスティックを肩の辺りでクルクル回した後、フロントの方に振り向ける。陽子は十子を連れてフロントからもう事務室に戻ってしまっていて、一人残された副支配人万智だけが作り笑いで応答している。そこにタボがモップとバケツを持って現れた。

「トミーちゃん、だめじゃないの!それホテルの大切な備品よ!圭太君が怒るよ‼もうアンタのモンじゃないからね!」
「あ、すみません・・・。」

万智の爆笑を背に富田はすごすごとエレベーターに乗り込んだ。

「三日月ねェ・・・。」

トランクのローラーがエレベーターの敷居のところで重い音を立てる。富田は胸ポケットを探ってエルメスの手帳を開く。カレンダーの日付の下に付された月齢マークを確かめる。なるほど。手帳を納めてから宿泊階の6を押す。伸びた左腕にミッドナイト色シリーズのapple watchのアロイが露わになる。5時10分。ふと十子の時計のことが気にかかる。まてよ、あの時計。月齢2.5とすぐに読める腕時計はそうそうない。ムーンフェイズがはめ込まれて、ある程度の月相が月の顔で小窓から覗く腕時計はたくさんあるが、太陰暦のひと月である29.5という数字を文字盤に刻印して、さらにそれを即座に正確に読めるように目盛りを振ってあるものは機械式時計でも珍しい。135歯で122.6年に一日の月齢誤差という高精度ムーンフェイズのA.Lange & Söhneですら、秒針盤と共用でムーンフェーズ用の目盛りはない。

実はセーラームーンの延長線上で個人的に月や天体の運行のロマンを取り込む機械式時計の魅力の虜になった。時計の話なら、一日中できるぐらいに。猛烈な学究の末、欲しいと富田が結論した時計が、ULYSSE NARDINの『アストロラビウム・ ガリレオガリレイ』で、1000万円することを知り、全て諦め、ならば現代の技術の粋にしようとapple watchに落ち着いた。月の引力から富田は自らを解放せざるをえなかった。まさか数年分の印税を時計につぎ込むわけにはいかない。

ありうるとしたらあれはBreguetのクラシックムーンフェイズ7787。ホワイトゴールドならステンレスにも見えるし、そもそもシンプルなデザインでBreguetという文字を間近で読まない限り、知らなければ、軽く300万円はする腕時計だとは一瞥でわからない。それを知っていてあのフロントの十子はなにくわぬ顔をしてどこかの無名メーカーの安物時計のように普段使いしているのか?あれは明らかに大きい方の男物。ただ、最近の腕時計はG-Shockあたりからユニセックス・モデルが主流で、女性ものも大きめで厚みのあるものが多いから違和感はない。

何者だろうか。十子というフロント・・・。そうだ。魔法の腕時計なら面白い。セーラームーンが魔法の時計を使って、時空を駆ける。いや、待て待て、もう陳腐かもしれない。富田は部屋に入り、まず仮眠をとることにした。

フロントから事務室に戻るなり、間髪を入れず陽子は無機質に切り出すことにした。一度タボもバックヤードの敷居を跨いで事務室に足を踏み入れたが、陽子の後ろ背の気配を気取ったのか、何も言わずまたモップを担ぎなおして出て行った。

「十ちゃん、例の飛沫防止用の透明のビニールシート取り付けていいわよ。でも善は急げで明日中にやってくれる?」

十子の警戒心を解くことが第一。ものを見抜く勘を持つ十子の先手を取る必要がある。

「そうですか。無駄にならなくてよかったです。分かりました。」
「あたしも手伝うし、メイクやパントリーのみんなにも言っとくから。」
「有難うございます。少し心配してました。市役所とかマツキヨやマルエツのレジもビニールシートで囲っているので。」
「ごめん。収束すると思ったのよ。」
「でも何でそんなに急いで取り付けるんです?日曜なら圭太君も出勤してるし、圭太君でも男手があると早いですよ?」
「この週末前にやっておきたいのよ。新人のイグちゃんなら呼びつけてもいいわよ。まだ試用期間中で過勤つかないし。」
「ま、色々他で取り付け方を参考のつもりで見てましたから、私たちでできるとは思いますけど。」
「あのね、日曜日に成田から20名、PCRで陰性だった日本人帰国者を二週間受け入れることにしたの。」
「まさか・・・ですよね⁈」
「一棟貸しで陽性の無症状者を受けろって本社が言ってきたけど、さっき断固断ったとこ。うちみたいにまだ一般のお客さんが十分入っている店をコロナ病棟にしたら終息後誰も来なくなりますよって。」

まず新型コロナ発生当初から感染している客の来訪に備えるべきと不安を訴えていた本丸の十子を落とさなければ、この一大事はモラルハザードの餌食となりかねない。世の一般的な従業員たちのコンセンサスが聞こえてくるようだ。

【一棟貸しをして、最低基本給が保証された在宅扱いなら、それでいいでーす。コロナに集るぐらいなら却ってウェルカムじゃん。感染者を受け入れているホテルの求人に新規の応募者はそうそういないでしょうしねェ?私たちの替りはそう簡単に見つからないすよォー。クビにはそうそうできないでしょう?でも申し訳ないけど他でもバイトしますからね?まァ黙認してくださいよ。だって基本給だけじゃわたしたち、生活できませんから!!標準報酬月額ではなく、勤怠評価や時間外・資格・満室・深夜勤務・目標占有率達成等の諸手当や会員新規獲得などの報奨金がつかない基本給で生活できないことぐらい判ってらっしゃいますよねェ?いつまでだか期限もまだ判らない?じゃあ必要になったらまたご連絡をくださーい。待ってまーす!】

十分予見できるこの従業員のモラルハザードへの陥没を避け、そこまでではないだろうという自分で集めたチームを信じたい気持ちもあり、なお且つ本社の意向も出来る範囲で受け入れるために整えた陽子の苦肉の策だった。このホテルが最後の居場所とタボが言っていたことがある。働ける場所しか自分には居場所はもうないのだと。そのかわり、誰にも負けないメイク・チームにするのが生きがいだと。自分の居場所の自分の生きがいだ、と。それがあれば家族の無い自分でも幸せだと。だから死ぬまで居てやるよ、と。

いち早く新型コロナのリスクを皆に訴えた十子へのスタッフたちの傾斜はある意味今当然だが、そもそも十子は従業員たちの信頼度が高い。十子は他人のことを悪く言わないらしい。そのかわり荒れている酔っ払い客も、だめなことはだめですよと言い含めてしまうと聞く。ヨーロッパにいたから理詰めかというとそうではなく、十子の目なのだとトミーさんが言っていた。あの子の目には奥の方に氷を感じると。簡単に言うと、「今あなたがおっしゃっていることよりずっと大変なことが世の中にはありますよね。」といわれているような気がすることがあるらしい。スタッフはだからクレーム客は皆、居れば十子に任せてしまうという。その十子を説得する必要があった。外堀内堀を埋めている時間はない。十子とタボがさっき一緒に休憩室で話し込んでいるようだった。それも気になっている。

「それって、却って不味くないでしょうか?」
「何かは受けないと。やれる範囲で。日本が困ってるのよ。」
「ワン・フロアー貸しということですよね?」
「何階にする?」
「出入りはしないってことでしょうか?うち客室数が200未満でエレベーター一基ですから。仮に感染者がいてあの狭い中で一緒だったら・・・。出入り禁止を徹底しないと、うちでクラスターが発生することになりかねないですよ?」
「そうね。」

事務室が冷え込んでいた。外窓のサッシとインプラスの内窓を陽子が閉める。川の岩畳は夕闇に沈み込み、陽は対岸の風布の丘の頂のあたりに差していた。岩の谷底から、夜に向けて日が岩肌を徐々によじ登ってゆく。風も岩壁を登ってゆく。そういえば今年は風布の農家からミカンが届かなかった。台風でやられたか。最上階の囲炉裏懐石『風布』の献立にも季節のお品書きにも水菓子としてまだこの冬風布蜜柑は取り上げられてはいない。フルメニューが滅多に出ないと料理長が嘆いていた。今月の家賃の支払いが遅れると言ってきた。カネの流れ。異変の気配かもしれない。昏くなってサッシの窓は鏡となって事務室の中を映し出す。十子の背後のフロントとバックヤードの間の戸口にリムとタボと万智が立っている。ヒトの流れ。異変が起き始めている。

「陽子ちゃん、うちも『コロナ・ホテル』になるの?」
「コロナ・ホテル?」

タボに肘で促されてリムがiPadを陽子に手渡す。『コロナ 感染 ホテル』が検索ボックスに入力されていた。他社ホテルが軽度感染者の受け入れの打診を受けたことがホテル従業員専用の会員制ブログに掲載されていた。ブログの中だけのことだが、内部告発者が数行えぐい書き込みをしていた。

【我々のホテルチェーンの創業ファミリーは首相と昵懇であることは業界では周知のことで、泣きつかれたら人肌脱ぐかもしれない。億単位の取引でもある。小聡明いオーナー夫婦なら今後の売上の下方スパイラルを予見して誰より早く名より実を取り、誰もが嫌がるであろう感染者受け入れを故意にマスコミに周知することで、国難に犠牲を払うホテルという国民の憐愍を勝ち取ることを選ぶだろう。最悪、ホテル名はただで毎日報道される。
土地所有率が3割にならない都内では、国税局の路線価で借地権割合が高く、新法で財産評価基準の底地評価が低い設定の地主に有利で事業用借地権者であるホテルに不利な借地に建っている店舗は、高い地代家賃を強いられ、売上利益率が低い。そうした店舗を何店かソーティングしてことごとく一棟貸ししてゆけば、コロナとオリンピック中止または延期の場合の打撃を予めフィルアップできる。
客室占有率の損益分岐点で、政府からもらう地代家賃と銀行の支払金利・ランニングコストのマトリックスを組めばよい。いつまでもつか。3カ月・客室平均占有率30%でホテルは潰れる。この機会に、全社的に従業員の合理化を進めるだろう。客足が止まるなら、従業員を切るしかない。しかし、スマートに。国家と会社経営の危機という名目が通用する。今なら明白な首切りの理由がある。転ばぬ先の杖。経営陣の声が聞こえる。みんな、気をつけろ。組合は団結しよう!】

「やっぱり、ネットは早いね・・・。あなたたちも・・・。」

水は急流になりかけている。

「うちが受けるのは基本的に陰性の人たちだから、こことは違う。ドクターも看護スタッフも付かないし、食事は政府の業者が三日ごとに二週間ケータリングでフロアーに直接デリバリーする。『風布』にも朝食バイキングにも出入りさせないことにする。」
「部屋掃除は?」
「タボのスタッフには申し訳ないけど、例えば3日ごととかでお願いできない?徹底的に消毒液まき散らしていいから。」

流れが変わるか。

「なんだったらほら金を溶かす液体、なんて言ったっけ、『王様の水』だっけ?頼んであげるから撒いてみる?」
「ああ、ショーサンね。だったら防護服の方が意味あるだろうね。冗談よく今言えるね。」

石が流れてしまった。投げてみた石。軽石のように浮いて流れた。

「ショーサン?」

リムが怪訝な顔で例のリピートをする。ダンナさまとの愛の巣で使われる語彙ではないだろう。

「硝酸?」

副支配人万智もきょとんとする。

「硝酸でコロナを殺せますの?」

十子が吹き出す。

「硝酸は危険物の法定劇薬じゃないかと。無理です。濃さ次第できっと大変なことになります。」

流速に変化があった。天然のリムが無事中国から復帰してくれて良かった。タボが金のエンゲージリングを右掌で軽く握っていた。

「冗談じゃない。」
「あたしも手伝うし・・・。ごめんね・・・。」
「そうじゃなくて、ショウサンのこと。」
「(安堵して)そっちのことか?」

リムがまだ怪訝な顔をしている。

「ショーサン?キケンブツ⁈困るね?」

まあ、いいから、場面が違うから、という風に十子が笑いながら手でリムを制止する。

「指輪してても、あたしは一人だしさ。集ったってさ、移す家族はいないからね。」
「タボさんはそうかもしれへんけど、リムにも、うちにも家族がおります・・・」

リムが真顔に急変して万智の方を向く。万智の知っている中国人の「我(ゥォ)」の表情で。

「私もほんとは嫌ね。でも大丈夫。私は強い。中国でもダイジョブだった。私も旦那様も若い。」
「それやったら、帰らんでええようにみなホテルに泊まれるようにしていただけませんか?いらんこと考えんですみますし。」
「それ困る。リムは帰る!」
「またあんたの『ダンナさま』かいな・・・。」

流れがまた渦巻く。万智が手に持ったマスクのゴム紐の一方を人差し指にかけて、もう一方を引っ張り、スリングショット・パチンコのように構え、リムに照準を合わせている。十子がタボに目で何か申し合わせたような合図をする。

「だからさ、家族持ちはいらないんだよ。陽子ちゃんは手伝うったってどうせいつも初日だけ。臨時でリムや万智のメイクした部屋は毎回あたしがもう一回やってんのよ、知ってる?手抜きで話になんないの!二度手間になるからあんたたちはこっちから願い下げ!」
「随分言うわね、タボちゃん。あたしはこの前本社から急に呼ばれて・・・」
「また会議がきっと入る。間違いない。メイクのシフト表にぽっかり突然穴が開くのよ。ねェ、万智?」
「はい。」
「新人もフロントの子もいりません。そのかわり臨時とバイトも含めて独身やシングルの一人もののチームでそのフロアーはやらせていただきます。万智、独身者リストを作ってくださいな。あたしが口説くからさ。足りなきゃあたしがまた館外から掻き集めるしさ。それから三部屋づつやるからさ。その間の客の待機場所をどうするか考えておいてよ。まァ、一週間に二度、計四回が限度かな?でもその日、パントリーの手伝いはあたし出ないからね。食べ物だからね。トミーさんとかキトウじいも元気良くても年だからね、移したらヤバいしね。」

予期に反して流れが収まった。

「これはまだうちだけ。羽田や成田は一棟貸しだからいずれ公表されるだろうけど、フロアー貸しはうちだけ。一般の宿泊客を全力でキープしないと。だからとにかく緘口令を敷いて、口外は絶対に控えるようにしてもらわないと。」
「(全員が)了解でーす。」
「辞める子いるかな・・・。」
「新人の二人あたりとちがいますか、目先。」
「亜実ちゃんと吉田君か。せっかくの二人目のフロント男子。」
「ウルフとイグ。」
「ウルフはわかるけど、イグって?」
「イグアナに似てるってタボさんいわはりまして。ね。ベットメーキングでベットに四つん這いになって乗っかってた吉田君が、イグアナそっくりやて。」
「圭太君はどう?」
「圭太は元は本社の人間だからね。」
「社命には従うか・・・」
「イグアナも狼も圭太もいりません。あたしたち強いシングルの人間だけでやります。やるときゃやるんだよ。何も感染者がいるってかぎったわけじゃないしね。十ちゃんがさっき言ったみたいに。万智もこれでいいでしょ。おばあちゃんに移さないように、十ちゃんとビニールシート二重に吊るして、マスク二枚してフロントに籠っときなさいよ。まずあんたが集らないようにさ。大学出は頭でっかちだから怖がりなんだよ。」
「あの、中国でホンモノの牛黄清心玉私買ってきた。コロナに効くらしいので怖いなら万智さん飲みますか?」
「何やそれ?」
「牛のGallstone。高い。」
「Gallの石って、要は牛の内臓の胆石?」
「蝙蝠だのセンザンコウだの牛の胆石だの勘弁してほしいわ。」
「中国4千年の知恵ですから。」
「あれ?3千年とちゃうの?千年増えてへん?突然。」
「4千年。」
「あんた飲んでんの?」
「いえ、まだ、ぜんぜん元気ですから。」
「いらんわ、そんなん。」

笑い声が事務所に溢れた。本来なら寒がりの陽子がとっくに暖房を入れている夕刻だった。どうやら万智が温度設定を切った上でさっきサッシを開けたらしい。窓を閉めてもまだ部屋は冷え切っていたが、今は寒く感じない。それぞれが事情を抱えて乗り越えてきた。背水の崖っぷちで風を何度も受けて、独りぼっちになって。親に置き去りにされて。または幼い子供たちを抱えて。時給を数えてとにかく歩いて乗り越えてきた。今、陽子はホテルを出て、岩畳に一人立って川の音を聴きたい。一人一人の事情を思いながら。彼女たちの生活費をまずは確保できた。一棟貸しではこの皆の居場所はなくなり、チームは離散する。陽子の知らない別の岸壁を彷徨い、時給を拾いに行くことになる。この寒空に、かじかんだ手で。よかった。願わくば陰性者がみな陰性のまま早くバスで帰って行ってほしい。

「コロナ・ホテルにはしないわよ。みんな。」

支配人陽子が座ったまま皆に向けて敬礼をする。目から涙がはらはらと落ちてゆく。ばつが悪いが、仕方ない。拭わずに、敬礼したまま一人一人に目礼を返しているうち、号泣を抑えられなくなった。

折しもプリンセス号乗船者から4人目の死者が出、2月28日には北海道で初めて外出自粛要請が発出されていた。武漢から970キロ離れた泉州市の新型コロナウイルス感染症対策の隔離施設として使われていたホテル崩壊のニュースの音声がまさにこの時フロントの方から流れて聞こえていた。席を立ち、ハンケチを握りながら陽子はフロントに向かった。

 

 

Ⅳ       Orkan   (颶風)          1973年9月28日・29日

 

「こちらはマダム・Von Branchitschさん。」

Ottoは仰々しく胸に右腕を押し付けて右掌を心臓の上に当てる国歌斉唱の時の動作をして、ワゴンの横のアジア系の女性を皆に紹介した。背丈のあるマダム・フェラーと並んで立っていても顔半分低いだけで、全く遜色がない。恐らく170㎝以上はある。ヒジャブのように巻いた白いスカーフの一端を吹き流しのように咥えている。

皆を見ているようで、実は見られている側の皆に、自分ではなく自分を通り越えた後ろにいる他人を見ているような錯覚を与えるズレの視線。ジュンはその視線を知っている。もう何作も少女の肖像画を描いてきて、鑑賞者が少し脇にずれて立っても自分を見ているような視線の目入れはできても、まさに今の彼女の目線を描き込むことが決してできないから知っている。描き手の画家をモデルは見ているわけで、完成した絵の正面から視角5度以内に立つ者は画家の代わりにモデルから視線を浴びるのは当たり前で、世で言われる「モナリザ効果」がダヴィンチの魔術だなどとは思わない。ジュンはその当たり前の目入れではなく、今のアジア系の女性の、こちらを見ているようで、じっと見返すと実はこちらの右肩の上を通り越した先を見ているのかもしれないという不安をあたえるような目遣りの神秘的な瞬間を描けないものかとずっと腐心してきている。彼女は今、画家ジュンを一瞥して会釈をした。いや、あるいはジュンの背後に立つ皆を一瞥して会釈をしたのかもしれない。

つぶらな大きな瞳と二重の鵝眼は彼女の背丈と同じように、ヨーロッパ人がまず思い描くアジアの女性の華奢で弱々しいイメージからかけ離れている。名前とは裏腹に、どう見てもハーフではない。現地男性と結婚した美女の多いという黒龍江省ハルピンあたりの出身の中国人女性だろうか。口を外すと、頬かむりのようになっていたスカーフがはらりと解け、Von Branchitsch夫人の長い光沢のある黒髪と端正な顔立ちが顕れる。その瞬間、食堂の男たちの息吹が止まり、音が消え、Von Branchitsch夫人の大きな黒い瞳の見る先が自分ではなく誰なのかを皆が探りあっている気配が食堂に溢れた。長い黒髪を右側の肩の前に払い流して、丈の長い白いX型のカフェエプロンの肩掛けを外す。サイケ柄の黄色の花柄のニットのワンピースが露見して、薄暗いワイナリーの従業員用の大食堂の一廓に突然場違いな華が咲く。ボディーラインにフィットしたタイトなシルエットを男たちが舐めるように目で値踏みしている。

「だめだめ、みんな!言ったよね、『マダム』Von Branchitschだって。Fräuleinでもmademoiselleでもないから!それから『Von』Branchitschさんだからね、何でもポーランドのシレジア州の貴族で、時代が時代ならなかなかお話しも叶わないご家系なんだからね!」

「Otto、ちょっと待って。そんなんじゃないから、私は。こんばんは、みなさん。あのドイツ語でいいかしら。わたしフランス語下手で。」

「何語でも構いません!話しておられる姿にどうせ皆魅入っているだけですから!」

ヘルパーの一角から声がかかる。軽い笑いが食堂に渦まく。

「Erikaと呼んでください。Ottoがすき焼きを作りに来てくれというので来たら、さっきまでKaysersbergの西の斜面で葡萄を刈らされてました!」

「Erikaごめんなさい。手が足りなくって・・・。てっきりヘルパーの方だと思って。だって軽々といっぱいの大かごを担げちゃうし。それにOttoが毎年いろんな人を連れてくるもんだから。」

マダム・フェラーがそう言ってジュンの方にまず目をやり、次に目線でVon Branchitsch夫人とジュンの間を交互に繋いでからOttoを見据え、だって、仕方ないでしょうと肩口の高さで両手を広げて見せて更に笑いを誘う。

「いや、僕の手塩にかけた Pinot girsの奴らがどうしても東洋の美しい夫人の手にかかって摘まれたいってきかないもんで・・・。今年のボトリングで Pinot grisの銘柄名は『Erika』にしたいとマダム・フェラーにご提言しようかと・・・。ねェ、マダム・・・。」

「Ottoの育てた葡萄だから、Ottoがお好きなように。」

「じゃあ、Pinot gris Kaysersberg-Quest /1973 / Alsace Grand Cru/ Erika et Otto / Domaine Weinfluss。どうだ、みんな、最高の響きでしょう?」

「Erika et Otto?」

「もうバカ売れ、在庫切れ間違いない。」

「そうね、et Ottoを取ればね。Erikaさんの名前だけでお願い。」

OttoはErikaが手にしていた30㎝ほどの菜箸を取り上げ、一本づつ両手に握って両方を宙に振りかざし、指揮者が二本のタクト棒を構える真似をする。

「諸君!これは指揮をするためのタクトではない。こんな具合に両手で持ってはいけない。こうやって、片手で二本とも握って、どうやらジュンの来た国あたりでは、皆このStäbchenで食事をするらしい。そして、どうやらこの手品のような技術を、中国人も日本人も全員マスターしており、さらに、どうやら、生存競争もかなり激しいらしい。テーブルの向こう側の奴の肉の方が大きければ、これだけ長ければ、腕を伸ばしてこの棒で突き刺して奪うことだってできるわけなのです!」

「Otto、それは料理するときに使うの、ほら、お鍋だと火で熱いから長い方が安全でしょう?」

「そうだったね、食べるときのStäbchenはずっと短かかったね。」

ErikaはOttoから菜箸を奪い返して、すき焼きの大鍋の中の具を手際よく整え始めた。その様子を見て、ひょっとすると、とは思い始めていたが、Erikaが日本人に違いないとジュンは確信した。ジュンが風呂を浴びに二階に上がるとき、ふと嗅ぎ取った醤油の焦げるような匂いはこのすき焼きだったわけで、奥の厨房でErikaが準備をしていたに違いない。Erikaという女性名はヨーロッパ各国にあり、日本人名とは限らないが、、目の前のErikaが日本人であればジュンは妙に嬉しいだろう。祖先とする原人の種が異なるとは言え、ゴヤの裸婦画のマハのプロポーションを持つ日本人女性もいることを現地の男どもに実物で見せることができるのなら、得意になれる。どうかね、大和撫子も。捨てたもんではないだろう。

「いや、諸君、安心したまえ。幸か不幸か、このワイナリーの食堂にはナイフとフォークとスプーンしかない。Stäbchenを扱えず、肉を摘まめず、餓死することにはならないのでね。諸君の口に合うか合わないかは分からないが、ベースのSojasauceは赤ワインとはまず全く飲み合わせが悪いが、ソムリエOttoとして申し上げると、ご覧のように調理に使われる砂糖と日本酒と去年の吾がPinot griの白ワインの相性はなかなかのもので、是非お試しいただきたい。」

サラダ用の小鉢にErikaがすき焼きを取り分けるのをマダム・フェラーが助けようとしているが、見かねてジュンが代わりに手助けに入る。ヘルパーたちがすき焼きの大鍋に挙って寄ってきて、もう誰もOttoの芝居じみた演説を真剣に聞くものはなく、醤油の軽く焦げた香ばしい匂いと大鍋から沸き上がる湯気と人いきれが溢れ、時間から時刻という区切りがなくなっていった。本来主賓であるべきジュンは、流れですき焼きをよそうErikaの脇で小鉢を差し出す配給担当になってしまっていた。長テーブルの反対側ではマダム・フェラーとOttoが皆にワインを振舞っている。すき焼き鍋から煮えた薄切り肉を更に一片加えて小鉢を渡すと皆お礼のお愛想で肩を触れてはゆく。次第にフランス語とドイツ語が食堂に溢れ、気儘に渦巻いて流れてゆく。ジュンとErikaはその流れから切り離されていた。

「日本の方ですよね?」

ようやく鍋の周りに張り付いていた欠食児童のようなヘルパーたちの囲いが解けて、話し掛ける間ができた。一瞬戸惑う様子だったが、軽く頷きながら、Erikaがすき焼きの具を小鉢に盛ってジュンに渡す。

「有難うございます。ようやくこっちもご相伴にあずかれる。」

「お肉、硬いですよね。」

確かに噛み切れず、一片ごと頬張るしかない。アルザスですき焼きを食べられること自体想像していなかったジュンが霜降り肉を期待するはずもない。醤油と酒と砂糖、豆腐にしらたき。それだけで出張中のジュンには有難く、贅沢を言うつもりなどない。

「いえ、ありがたさを、噛みしめて。おいしいです。」

(軽く微笑む)Angus牛のChuck Rollなんですけど、Wie Papier薄く切ってって、ボンの行きつけの肉屋さんではお願いできるんですけど、ここの肉屋さんはわかってくれなくて・・・。」

「なるほど、紙のように薄く、ですか。」

「牛肉を煮る料理はこちらではあまりないので。Rouladenという巻

き肉料理はあるんですけど、それもまず表面を焼いてから煮るので。」

「すき焼きといっても誰も知らない。」

「食べ物としては・・・」

「食べ物でないすき焼きがあるのですか?」

「はい・・・」

「?」

「歌です。」

「歌?」

「こちらでも大ヒットしたんですよ、『上を向いて歩こう』。」

「ああ、坂本九の?」

「そうです。こちらではあの曲『SUKIYAKI』っていうタイトルで流行ったんです。」

「なるほど・・・。」

「今Hot ButterのシンセサイザーのPopcornって曲が流行ってますけど、ラジオではPopcornが流れると次はSUKIYAKIが聞こえてくることがこのごろ多いんですよ。」

「ホット・バターのポップコーンとすき焼きですか・・・。」

こんな話ではない。今、ジュンが話したいことは。日本から一万キロ離れたこのアルザスの葡萄の低木が列をなして斜面という斜面を競りあがり、はるかな尾根の向こうへ、うねり上がってゆく生涯見たこともないこの広大無辺な風景の中のフランスの僻村のしかもその一点である鄙びたワイナリーの中世のままのような建物の伽藍の食堂の一廓で、なぜ初対面の我々日本人二人が菜箸を握って、フランス人たちにすき焼きを取り分けているのか。あなたは誰か。日本人なのに、どこから、降って湧いて、ここに今おられるのか。秩父夜祭の夜、女神の妙見様が年に一度、神体山である「武甲山」の男神の龍神様と秩父神社境内でデートをする。山車を引き回し、皆でその逢瀬を一緒に祝う。いや。こんな話でもない。話したいことは。菜箸を握ったままの手を持ち上げて、Erikaは口元を覆うような仕草をしながら笑っている。

「じゃあ、ジュンさんは龍神様?」

初めてErikaがジュンの目を、直視している。日本人離れした丸アーモンドの瞳がジュンを見ているというより、ジュンを覗いている。見られているようで、実は見られてはいないのかもしれないという例の視線ではない。明らかに、至近距離からジュンを覗いている。いつものジュンの画家の目であれば、押し返せるのかもしれないが、今ジュンは見る方ではなく、見られる側という普段と違うポジションにいる。いつ目が合うのか、一体目を合わせられることがあるのかもわからないErikaの持ち合わせる例の視線に不意に直視され、ジュンは全く無防備のままだった。ジュンを覗いているErikaのその視線は、ジュンを射抜いて、ジュンの両目を通り抜けて、さらにジュンの後ろを見透かしてゆく。まてよ。これも例の視線と変わらないじゃないか。同じじゃないか。俺は、ここだよ。そっちじゃない。ここ。

「生卵も一応持ってきてあります。割りましょうか?」

「そうですね。お願いします。」

「こっちの人たちは、卵を生で食べないんです。ご存じですか?」

「半生のスクランブル・エッグや半熟卵はホテルの朝食で出ますよ?」

「でも生卵は嫌うんです。こうやって卵を溶いて啜ったりすると、

ゲゲって感じでみんな引くんですよね。野蛮人観るように。」

「火をまだ知らない頃、こいつらの祖先のネアンデルタール人だって生でシカやイノシシや何でも喰っていたのでしょうにね。恐竜の卵を割って手で掬って啜ってたかもしれない。」

「チフスが流行った時、生卵のサルモネラ菌が原因だってみんな思ったらしいです。生食が禁止されたこともあるって聞きます。鶏のお尻から出てきたものだからばい菌だらけだって。」

「お尻からねェ。まあ言われてみればそうでしょうがねェ・・・。」

「スーパーに行かれたことあります?」

「いえ、というか、今回はまだ。」

「真っ赤な卵とか、真っ青な卵とかパックで売ってます。ほら、向こうの棚の下の籠に朝食の残りのブルーの卵がいくつか盛ってあるのが見えますか?」

「色が殻に塗ってあるのですか?」

「そうです。」

「鶏卵の種類で色分けとか、例えばブロイラーなら赤とか?」

「生じゃないって標です。茹で卵は殻が着色されているんです。」

「じゃあ、あのブルーの卵を割っても、すき焼きのつけ玉にはならないで茹で卵っていうことですね?」

「はい。」

「私の住んでいる秩父では、そもそも牡丹鍋といって猪を煮て食べるんですが、卵なんてもう高級品で、鍋の最後に親父が一人で一個だけ割って鍋に直接掛けてとじ玉として煮て食べてましたね。なんか美味そうで。生卵を各自につけ玉として出すなんて最近のことで、卵一個でかけそば3杯分の値段がしてましたからね。そんな贅沢は出来ませんでしたよ。」

こんなしみったれた話じゃない。今、ジュンが話したいことは。語彙を集め、収斂させ、ジュンは今話さなければならないことが別にある。何を聞こう。何を聞き出そうか。まず自己紹介だろうが、俺はなんで卵を一人で食っている親父のことを話さなければならんのか?すき焼きを啜りながら宙に目を泳がせているうち、不幸にも長テーブルの向こう側のOttoと目が合ってしまう。いや、お前はそっちにいてくれ。俺はお前を見ていない。呼び寄せるために目を遣ったわけじゃない。Ottoはジュンの目を執拗に追って、目線を合わせてから、下顎をErikaの方に向けて二、三度ウリウリと動かして、意味ありげな上目使いをしてくる。

「(どうだい。いい女だろ?。)」

そのままそっちにおれ、という合図のつもりで目線を外したが、OttoはすかさずPinot grisのワインボトルを持ってふたりの間に分け入ってきてしまった。

「Pardon、Pardon!ご両人、お邪魔かな?」

「Otto、ワインくれるの?」

「もちろんです、マダム Von Branchitsch!」

「その呼び方はもうやめてね。」

「失礼。では、今晩からここではErikaでよいですね?」

「Erikaにしてください。」

「(笑う)わかりました、気楽なErikaにしてあげます!」

Ottoはソムリエがシャンペンを注ぐときのように底の方に親指を差し込んで持っていたボトルを持ち換えて、ボトルのボディーを鷲掴みにしてErikaとジュンと自分のグラスに薄金色のPinot grisを流し込んで自分のグラスを目の高さに上げて言う。

「これがね、友達同士のワインの注ぎ方。Erika、Otto、そして日本

からの私の客人のJuin。A votre santé!Prost!」

「ところでジュンさんはOttoの何のお客様?」

「あれ、自己紹介もまだなの?ムッシューJuin Moriya?」

左肘でOttoはジュンの脇腹のあたりをぐりぐりと小突いてくる。中腰になってズボンの後ろのポケットから徐に丸めていた新聞を取り出し、ページを指を舐めながら捲って、すき焼き鍋の横で広げて見せる。タブロイド判の地元紙の新聞で、文化欄らしきページの紙面にジュンの顔写真と秩父夜祭の屋台の前で嘶く白馬を描いた「絵馬」の白黒写真が代表作として掲載され、Colmarの観光見本市のコンペティション会議で日本のOGANOの春祭りが著名カーニバル画家Juin Moriyaによって紹介されたことが高評されていた。小鹿野春祭りの招聘に好意的な内容だった。

「こちらのJuinはね、日本の絵描きさんで、著名なカーニバル画家。」

「著名でも、カーニバル画家でもないけど・・・。」

「絵描きさんだったんですか。ワインの仕入れの業者さんかと思ってました。」

「私もこの記事で今朝知りました。ホテルのお客さんだっただけで、まさか著名な日本の絵描きさんとは全く・・・。ただ、ワインのテイスティングのとき、まず揮発香を消すために、手首でワイングラスを零さずにリズミカルに回して香りを嗅いだ初めての日本人だったんで、この人はワインを知っているとすぐに判った。だからKaysersbergにお誘いしたんです。」

「お陰で腰が痛い。」

「私も。」

「テイスティングはどこで習った?」

「若いころ、Villiers-le Bacleのレストランで。」

「どこの村かな?聞いたことないな。」

Ottoが首をかしげている。物知りのOttoでも知るはずはない。ジュンや一部の日本の画家にとっては聖地でも、飲食のフランスの洒落た文化圏からはかけ離れている。

「パリの郊外のさびれた村。」

「いつごろのこと?」

「私が二十三歳の頃。そこに住んでいた先生にいつもパリの詩人や画家たちのワインの飲み方はこうだって教わった。コクトーはこう、ピカソはこんな感じって。」

「我が国の誇る偉人たちとも親交がおありでしたか!」

「いや私じゃない、私の絵の先生の話。」

「そちらにはどれぐらいいらしたんですか?」

「3年ほど出入りしてました。というか、ワインを頂きによく伺いました。」

Ottoが注いでくれたワイングラスの柄の下の方を指で摘まんで、薄金色のPinot gris Kaysersberg-Questをグラスの中の遠心力の渦に巧みに巻き込んでかなり激しく回して見せる。

「これは私の先生の飲み方。教わり始めの頃、よく先生にワインを引っ掛けちゃったもんです。今お前、7フラン分零したぞって。ほら、床にもうひと財産ぶちまけてるって。零すたんびにフランス語の聖書を朗読しろって。」

「(笑う)それでフランス語がお上手なんですね?」

「いや、まあ先生も晩年で何か宗教画に取り掛かっておられたからでしょうけどね・・・。」

ジュンは人差し指をグラスの中のワインに浸して、その指でワイングラスの縁に沿ってゆっくりと円を描きながらなぞり始める。ワイングラスが擦れて共鳴音が立ち始める。パリの大道芸人は、音階分のグラスを固定して並べて、国歌「La Marseillaise」を両手で弾くのだと言って先生がグラスの鳴らし方を教えてくれた。中の液体の量でドレミファに調律できる。Erika が本当に初めて笑った。ジュンも初めてErikaの瞳を自分から捉えにゆくことができた。食堂のヘルパーたちも気づいて一斉に皆長テーブルに自分のグラスを置いてグラスをなぞり始める。色々な音階の共鳴音が食堂に一頻り溢れる。中には縁を指でなぞりながら、立てた音に陶然として鼻を上にあげ顎をあげ、音に合わせてゆらゆらと演奏家気取りで小首を振る者もいた。OttoがErikaから菜箸を一本取り上げ、またタクトのように指揮をする振りをする。

「いやいや、ムッシューJuinが上手なのはフランス語だけでなく、フランスの誇り、ワインの文化をも十分判っておられる。今日刈り取っていた頂いたKaysersbergの葡萄たちに代わって、ErikaとJuinに心からご加勢に感謝します!」

Ottoが席で改めて佇立して、右腕を胸に当て、左腕を後方に大きく振り上げ、二人にお辞儀をしながら片膝を低くして深々と礼を表する仕草をする。王に恭順を示す中世の最敬礼。道化であれ、Ottoの中に源とするヨーロッパの文化の根があって、その深いところの根から発せられる茎であり葉である手足の動きや台詞は堂に入っていて軽々しさを感じさせるところがあまりない。真似事の仕草なら癇に障るはずだが、異文化の異なる大仰な仕草にも嫌味を感じないのは不思議に思う。何かわかる気がしてしまう。白熱電球や新しく導入され始めたGermerやGEの蛍光灯で部屋が明るくなっても、今、長テーブルの中央で灯っている灯油ランプの橙色の明かりにはなにか不変の懐かしさがある。言葉も仕草も実際のところは言いたいことの内容が伝わればいい。照明も明るければそれでいい。だが、きっと言葉にも仕草にも、また明るさにも時代を越える味がある。時代を超える色がある。その味や色でこそ文化が成り立つ。進化して変化変転する文明はそれでよい。が、変わらない文化が残されていてもいい。

ジュンはふと薪能に幼いさとしを連れて行った晩のことを思い出した。あの晩、確かさとしは何も分らなかったにもかかわらず、騒ぎもせず、寝入ることもなく、ただじっと、目を爛々とさせながら固唾を呑むようにしてその緩慢な静かな舞いと謡いに魅入っていた。

「何言ってるかわからないだろ?」

「あれ女の人のお面?」

「そうだよ。」

「悲しそうだね、とっても・・・。なんかかわいそう・・・。」

さとしはあらかじめ教えておいた筋書きしか知らない。ただ、時代を越えて、深いところの根から発せられた能役者の舞いの仕草と謡いの響きに、それらの味や色に触れ、なにかをわかっていたのかもしれない。飽きてウルトラマンのシュワッチをし始めるのではないかとやきもきしていたが、思いもかけず、さとしはスペシウム光線の未来の文明ではなく、六百年前の所作を伴う日本の歌舞劇という文化を楽しんでくれていた。Ottoはある意味、レストランでも、この鄙びた中世のままのようなワイナリーでもどちらの場でも舞台の役者のようでもあり、そのおかげで、今ヨーロッパにいることをジュンは実感できるし、その味も色も楽しめている。時刻の突起がやすりで削がれた心地よい時間、居たことがあるわけはないが、何か懐かしい中世のヨーロッパに迷い込んだような時間の中で、ジュンは居心地に陶然としていた。ブリューゲルの「農民の結婚式」の絵の中に自分がいて一緒に酒を呑んでいるような錯覚。来て良かった。

急に風が吹き荒れてきて、館の窓や扉が音を立て始めた。稲光がして、雷鳴が遠くから聞こえてくる。まだ食堂の談笑は続いていたが、ヘルパーたちの目線が皆窓の方に向きはじめた。雷鳴が近づいてきた。急転して、日中の気温が嘘のように、冷気と風が館内に吹き込んでくる。籠っていたすき焼きの醤油の残り香がその風に吹き上げられて、すっかりもう消えていた。稲妻で浮きあがる稜線のひと尾根向こう側では間違いなくすでに滝のように冷たい雨が降っていて、その一帯の冷えきった大気を巻き上げてそれが畝伝いに吹き下りてくる。観念したように、Ottoがワイングラスを珍しく乱暴にテーブルに音を立てて置く。ヘルパーたちに向かって腕と掌を腰のあたりから自分の鼻先に大きな弧を描いて振り上げて、「行くぞ」と促すと、事情を分かっているヘルパーたちも一斉に立ち上がり、入り口の教会堂風のオーク材の重い扉を開け放って、もうすでに逆巻くようになった小夜嵐の中に飛び出していった。扉の鉄製のドアノッカーの輪の揺れる軋音と、時折、中庭を掻きまわすような旋風に煽られて、コツコツと厚い木扉に当たる音が食堂に響く。

「Orkanだわね。」

「そうですね。私もお手伝いに出ましょうか?」

マダム・フェラーにErikaが応答する。

「あなたたちは着替えているし、残って、そうね、ドリンクだけ残して、Dinnerの片付けだけお願いできるかしら?私は葡萄の方を手伝いにゆきます。」

打って変わったマダム・フェラーの顔色にジュンも事情を察した。

「よくないのですか?」

「最悪よ。」

「強風で葡萄が落ちるからですか?」

「(深く頷く)それに、雨はもっと・・・。収穫前に水気を吸うのはよくないの・・・。成っているのにも、収穫したのにも。」

「全部確か野ざらしのままでしたね。」

「雨が来る前に、せめて収穫した方にシートを被せないと!」

Ottoが外から窓をたたくので、そばにいたErikaが開けようとして旧式のT字型レバーハンドルを回した途端、スライド・ラッチもこじ開けて突風が食堂に吹き込んできた。

「マダム・フェラー、暗くって何も見えない。二階から、ほら、おととし買っておいた投光器で中庭を照らしてください!4台、二階の奥のチェストに入れてあるから!」

「雨は?」

「まだ。でも来る。」

「Otto、あなたよ、今週は降らないって言ってたのは⁈」

Ottoは下腹のあたりで手の平を表に返して両腕を広げて見せる。どうしろというのかという仕草。

「天はあなたに試練を与える・・・。」

なるほどそうね、と言わんばかりに、マダム・フェラーが人差し指をOttoに向けて、目を見つめながら頷く。

「Juin、申し訳ないが、君の今夜の寝室の奥のチェストだから、マダムが投光器を出すのを手伝ってあげてくれないか?」

延長コードを這わせて、二階の四か所の窓からマダム・フェラーとジュンが作業用の投光器を中庭に向けてセットを終える。光の大きな四つの暈の下で、ヘルパーたちが次々と昼間収穫したブドウを積み上げてあった大きな箱型の車輪付きの荷台を中庭の中央に寄せ、カバーや筵を手際よく被せて、風に捲れないようにロープで括り始めている。

「マダム、皆さんの手際の良さはオリンピック並みですね。」

「(中庭に目を遣りながら)そうね、初めてじゃないから。」

「なるほど。」

「おととしはこの明かりがなくて、雨もひどくて・・・。」

「でも収穫した葡萄をなぜすぐに貯蔵庫にしまわないのですか?」

「うちは代々、最低一日は籠干ししてから地下のタンクに落とすの。」

「おまじないですか?」

「精一杯甘くなるように甘やかしてきたから、あの子たち。親から離されて泣いているから、まずその涙が乾くのを待つの。」

「葡萄の子が泣くんですね?」

「そうよ、みんな一人っ子なの、あの子たち。」

「?」

「一枝に一房だけ成るように、他の芽は取って育てているから。」

「なるほど。」

「子供は親離れしてから熟すの。でもね、熟す前に濡れると良くない。甘酸っぱくなってしまうのよ。」

「なるほど。」

「じゃあ、申し訳ないけど、後片付けをお二人にお願いして、私は手伝いにいきます。」

稲妻が走り、Ottoが両開きにして出て行ったまま開け放しの厚いオーク扉を右手で掴み、左手で合羽のフードを被りながら中庭に出てゆくマダムの長い影がエントランスの床に浮きあがる。稲光のライムライトの逆光が、中庭に面した別館の脇に聳え立つポプラの巨木を背後から照らし、その影が、天声とほぼ同じ間合いで幾度も中庭から競りあがり、ジュンたちのいる母家にまで生き物のように伸びてくる。閃光が空を二分して黒鼠色の雲塊を刺した瞬間、割れた夜空から滝落としの雨が始まった。忘れていったトーチランプとゴム手袋を持ってErikaが慌ててマダムを追ってゆく。呼びかけてももはや聞こえるはずもない。ポプラの巨木の足元には、鉄製の井筒の被せてある腰の高さに円筒状にレンガを組み上げた屋根付きの井戸がある。そこで追いついたErikaとマダムのまるで揉み合うようなシルエットをひときわ激しい稲光が二度照射する。

逆巻く風がKaysersbergの丘の葡萄樹の畝の隊列をなぎ倒すように吹き降りてくる。扉は風圧でもはや一人の人力では閉められなくなっている。このまま、丘の葡萄の尾根が丸ごと館内に流れ込んでくるとして、この古い館がそれをせき止めることができるだろうか。丘の斜面一帯が狂ったフラッシュバックのように不規則に照らし出され、とうとう、その閃光と雷鳴が頭上で同時に炸裂し始める。重い太い雨が館の屋根を打ち、樋から溢れ、扉を閉めようとしているジュンとErika をずぶ濡れにし、二階の投光器の明かりは中庭ではなく、銀の雨のカーテンを照らしているだけとなっていた。途切れ途切れに聞こえていた中庭のヘルパーたちの掛け声はもう一切聞こえなくなっていた。すでに中庭のカバー掛けの作業は終わり、葡萄の網掛けに皆丘に上がっていったのかもしれない。Orkanが全てを支配し、何もかもを閉じ込めてしまった。

「これ台風ですよね?」

「Orkanって呼ばれてます。どっちかというと秋から冬にくる嵐ですね。ちょっと今年は早い気がします。」

「まあ、台風も野分といって秋の季語ですから、似ています。どこ

の国にも嵐はあるんですね。」

風向きによって風圧が緩む瞬間を読みあって、大声で掛け声をかけあって重い扉をようやく閉め、両扉の閂錠の丁番を通して固定しおうせた時、この残された二人も吹き込む雨を全身に受けて濡れ鼠だった。

「我々にだって、やはり、合羽を貸してくれるべきですよね?」

「ほんとうですね。」

「あなたたちは着替えているからって、私は構わないけど、そのマダムが忘れ物はするわ、Erikaさんのせっかくのワンピースずぶ濡れですよ。まったく・・・。」

「私、全然構いません。みなさん、もっとずっと大変です。」

Erikaはワンピースの肩口や脇腹のあたりを掌で水滴を払う仕草をし始めて、実はそれどころではなく、着衣すべてがぐしょぐしょであることに初めて気が付いたようだった。濡れ具合を調べるつもりでワンピースを鳩尾のあたりから下に引っ張ると、薄手のニット地がさらに肌に張り付いて、却って胸元のブラジャーのラインと、うっすらと乳首の隆起が透けて見えていた。下向きになったまま、Erikaはそれを隠すように腕組をした。頬に張り付いた髪を片肘を解いて、かき上げたとき、仄かに黄水仙の香りがした。

ブローで少しアップにしていた黒髪が濡れてボリュームがなくなり、目の前のErikaの立ち姿そのものが急にシュンと小さくなっている。外から聞こえてくる霹靂の轟と館を貫く鋭い放電発光が繰り返す光と音の炸裂の真っただ中で、閉じ終わった扉に内側から手を掛けたまま、ジュンは今、自分たちがどこにいるのか、どこに置き去りにされ、今がいつなのか、さっきまでの賑やかな晩餐が遠い昔の、まるで館ごと中世のヨーロッパにタイムスリップして見ていた夢から二人でこの今に舞い戻って来た気がした。Erikaも同じように、見知らぬ時空でジュンと「今」に取り残されていることに気づいているのかもしれない。毛先を指でいじった後、髪全体を絞るようにして水気を軽くひねって肩から胸元に下ろす仕草を繰り返している。辛うじてまだ残っていた緩いブローパーマも取れ、そこには余所行きの外装を脱衣した素のままのErikaがはるか以前の少女のように所在なさそうに立っている。まるで母親や父親の前のように。晩餐に颯爽と登場したVon Branchitsch夫人以前のErikaが時空を遡って、今、ジュンの前に立っている。

疾風迅雷に抗いながら一人で扉を支えていた時、雷光で闇に照らし出されるポプラの大木が気にかかってジュンは何度も振り返った。あれは樹じゃなくって、あの古い井戸から這い出してきた巨人じゃないのかな。だれだっけ、そんな絵があった気がする。クールベだったっけ。奴は見たことのない天使を描けないって言ってたから、違うな。セガンティーニあたりだっけ。いや、あのポプラはルーベンスの我が子を食らうサトゥルヌスに近いな。ジュンは両手を何度もシャツで拭った。雨に濡れて手が滑るからだけではなかった。掌に汗を握っていたからだった。葡萄の畝丘に一人向かったマダム・フェラーの後ろ姿が二度照らし出されてから、見えなくなった。中庭の先に別の小道があってそっちに折れたのか、次の稲光の瞬間から既にその白い後ろ姿が映し出されなくなったことが気になった。いや、二度目に雨の中に照らし出されていたのは、こちらに向かって走って戻ってきていたErikaの姿だったかもしれない。マダムではない。戻ってくれてよかった。そしてポプラの下の井戸から戻って来て、けなげに一緒に無心に扉を押してくれたのは、滝の雨で身に纏っているものをすっかり洗い流して、装いの全くなくなった素のErikaだった。Von Branchitsch夫人としての経年以前にタイムリープして、ジュンの今にErikaが蘇って現れた気がした。

玄関エントランスの天井から吊るされている古城風の蝋燭型電球が環状に二段並ぶシャンデリアがどこからか吹き込んでくる風に反応して、橙白色の明かりが絶え間なく揺れている。Erikaもジュンもその明かりの中で、口は利かず、雨が屋根を打つ音に包囲されたまま、次の雷の音を待っている。手を差し伸ばして、張り付いたほつれ毛を頬から取り除く。ジュンの指の背で触れた頬は冷たい。今、手背を返して、ジュンはErikaの頬に掌を添え、温めることができる。今、両手で冷え切った両頬を包み込むこともできる。だから、あなたはどこから来たのか?あなたは誰か?尋ねることが今はできる。画家である私は、あなたを描かせていただけるなら、二部作にしたい。一部は広袖の小袿を着せて、平安時代の祭りの夜の神社の絵馬掛処の前景に着衣のまま立っていただく。Von Branchitsch夫人の気品と自信に溢れる美しいあなたを描く。ただこっちのドレスじゃない。私は日本の祭りの画家だから。一部は、裸婦として描かせていただきたい。日照り雨を浴びながら、奥秩父の赤平川に膝まで浸からせて、河原に居る私をじっと見返していただく。嵐の中から戻った今のままの無垢なあなたが、川辺の私の邪念を見通して、あなたのその独特な眼差しで、そう、あの阿修羅像の困惑したような、窘めるような、それでもすべてを許すような直視で見返していただきたい。Erikaはうつむいたまま微動だにしない。ジュンはそう思うことを言えたのか。何か呟いていたかもしれない。口が乾いていた。何も発語していなかったのかもしれない。話すためには、意図して頬筋を解して張り付いてしまった唇を剥がす動作が必要なはず。ジュンの両唇はいま閉じている。ジュンの両手は、ジュンのズボンのポケットにもうそれぞれ収まっている。

明かりと共にゆらゆらと右往左往する床の二人の薄い影を目で追い、時々稲妻が突如浮き彫りにする二人の濃い影で、お互いの立ち位置が変わっていないことを神の明言であるかのようにジュンは確かめている。

「私一人では無理だった。すみませんでした。マダムと行ってしまうのかと思いました。助かりました、戻っていただいて。」

「結構、私、力持ちなんです。」

「のようですね。はっきりいって、びっくりするぐらい。」

「会津の女は強いですよ。」

「会津ご出身ですか。なるほど・・・。」

「なるほど、とは?」

「確か『ならぬものはならぬ』という・・・。」

「(間)そうです。」

雷の間隔がわずかに広がって、雷鳴が夜空で二手に分かれて響いてくるようになった。一方はかなりな速度で館からどんどん離れてゆき、遠雷になってゆくさまが耳で追える。もう一方は館の近くの北の丘陵を越えたあたりにまだ滞留していた。滝のような雨はまだ途切れることなく、颶風に巻き上げられ、今は館の北側の窓という窓に叩きつけられている。

「ジュンさんはお着換えお持ちですか?このままでは風邪を引かれてしまいます。」

「昼間の作業着がわりのジーンスだけで、あれも汚れてるし、どうしようかな?Erikaさんこそ着替えあるんですか?」

「いえ、私も。あそこの暖炉に薪をくべて、乾かしましょう。皆さんもきっと帰ってきたら喜びますよ。」

「さっき上でお風呂をいただいたんですが、タオルがたくさん置いてあったので、何枚か持ってきましょう。」

「それは助かります。お願いします。」

二階からジュンはタオルと浴室に掛かっていた男性用のタオル地のバスローブ二着を持って降りると、大食堂の中央の歴史と共に薄黄色に変色した大理石のアーチ枠が組み込まれているレンガ造りの幅2m、奥行1m、間口の高さも1m近くはある大きな暖炉に潜り込んでErikaが細い薪を井形に組み上げている最中だった。初めてとは思えない、まるで職人のような手さばきだった。中世にはこの暖炉が竈の代わりに調理に使われていたに違いない。

「これなら本当にサンタクロースが煙突から降りてこられますね。」

「そうですね。収穫祭が終わるとすぐにクリスマスです。StrasbourgやKaysersbergのクリスマス・マーケット、ご存知ですか?有名なんですよ?売り物のクリスマス・ツリーの飾り玉や金色のオーナメントや星形、ラッパの天使のフィギュアとか、とにかくたくさんの小物が石畳の道の上に吊るされていて、それを潜って歩くんです。気に入ったものを買ったり、グリューワインという温めた香料入りの甘いワインをみんなで飲み歩いて・・・。私が一番好きなヨーロッパ。」

「日本の酉の市みたいですよね。OttoのStrasbourgのホテルにそのマーケットの写真があちこちに掛かってました。パリのシャンゼリゼ―にも大きな市が立ってました。でも神社の大きな熊手、装飾熊手みたいなものがなかった。」

「降臨節のアドベント・リースがありますよ。四本の大きなキャンドルをはめ込んだ、もみの葉を編んで作った大きな輪のデコレーション。」

「毎週日曜日にローソクに火をつけるやつでしょ?知ってます。子供たちのため周りに香料入りのクッキーをお母さんが焼いてよく置いてあげてるやつ。」

「(笑う)そうです、そうです。」

「Erikaさん、お子さんは?」

薪木を組む手が一瞬止まり、振り向きざまに見せていた笑顔が中途半端なままErikaの横顔に張り付いたままになった。間を置いて、Erikaがゆっくりと首を横に振った。

「ジュンさんは?」

「ぼうずが一人です。」

「奥様はフランス人?」

「まさか。Erikaさんじゃあるまいし。」

「ボクも奥さんも日本でお寂しいでしょうね、きっと。」

「さとしはせーせーしてますよ。口うるさい父親がいないから。」

「ジュンさんが?普通、口うるさいのは、お母さんの方の役目でしょ?」

後ろ向きで薪の束を抱えながら、櫓を暖炉の中に潜り込んで組み上げているErikaが手を休める気配がないので、背後から肩に、持ってきた一方のバスローブを広げて掛ける。確かヨーロッパでは、真冬にレストランを出る時、男性が必ず女性にコートを掛けてやることが大切な紳士としての自然な礼儀、たしなみだと先生に教わったことを思い出した。

「あ、有難うございます。」

Erikaはなるほどヨーロッパに長いことがわかる。日本でなら、ジュンとしてはかなり踏み込んだ愛情表現なのだが、Erikaには当たり前のこととして軽く去なされた。待てよ、俺はさっき妙なことを口走っていないよな。仮に俺の譫言が漏れたとして、音声にはなっていないだろうな。雷を無数に浴びて変になったのは俺の方かもしれない。

バスローブを掛けた時、その軽い裾風に押されて今また香って来たErikaの仄かな香水のせいもあるに違いない。グリーンノートが甘さにかぶさるようなその香りをジュンはよく知っている。ジュンにとってそれは真冬が終わる季節に小鹿野の実家の庭で毎年嗅ぐ、房総のをくずれから持ち帰って植えた日本水仙の蘭麝。ブラジルに明治初期移民した者のいる秩父地方には、イペーというブラジルのキバナノウゼンの木を植えている農家がある。その単純なレモンイエローに違和感を子供のころから覚えていたので、そのあからさまなイペーの黄色ではなく、その緑がかったカナリーイエローに魅せられて植えこんだものが、庭の一角に群生するようになってから知った花香だった。秋口のしかもフランスのアルザスの僻村の夜嵐の中で嗅ぎ取れるはずのない黄水仙の香。

匂いは時空を越える。必ず、ヒトの記憶の襞に痕跡を残す。そして、後日、同じ匂いを知覚した途端、その記憶の襞が開き、その匂いのした場所と時間にヒトを連れ戻す力がある。その記憶が良いことでも、悪いことでも、思い出したいことでも、決して思い出したくないことでも、ヒトに取捨選択の余地を一切与えず、有無を言わさず、その場所、その時間に強引に連れ戻してしまう。

ジュンは今、小鹿野の実家でアトリエにしている蔵の土間から稲光に浮き上がる両神山を見上げていた三年前に着地している。乾いた畑が急激に雨に濡れて、独特な土の蒸した匂いを風が巻き上げてジュンを包み込む。その中のかすかな甘い香りをジュンは嗅ぎ取っている。

「ご自分で植えておいて、ご存知じゃないの?」

「え?」

「日本水仙の匂いよ、これが。」

「そうか・・・。いい匂いだね。」

「今頃?」

「俺は色が好きで貰って来たんでね。匂いはしてたのかなァ・・・。」

「をくずれでも十分してました。あなたは色には敏感なのに、お鼻はまったくだめなんですね?」

「仏壇の線香と蚊取り線香の違いは判る。」

「夜はもう色は見えないわ。」

「いや、あのカナリーイエローは今目をつぶっても俺には見える。あの色なんだ。祭りの夜の武甲の月は・・・。それに、パリの孤独な屋根裏部屋の明かりかな・・・。」

「私は目が見えなくなっても、この匂いがしたら黄水仙が見えるわ。」

「いい匂いだね、確かに。」

「香水の香料にもなるの。」

「香水?俺は苦手だなァ。」

「やっぱり。」

「パリにいたとき、とにかく臭いんだよ。むこうの女とすれ違うたび、すごい強烈なんだ、香水の匂いが・・・」

「へえ、そうですか。『すれ違った』だけで。」

「そうだよ。それに一度、ダンスホールに先生と行って、ダンスまがいをしたことがあるんだけど、もう着ていた服に付いた香水の匂いが洗っても取れなくて参った。」

「へえ、一度ですか、ダンス。」

「・・・」

「あなたのお鼻でもかげた?」

「・・・」

「随分増えたからやっとあなたにもわかるようになったのね、うちの少年団。」

「うちの少年団?」

「水仙って俯いて池に映る自分に見惚れている美少年のナルシスでしょ?」

「うん。むこうの神話ではね。」

「ちょっと増えすぎて美少年の乱れ咲きかしら。お母様が少年団はまあいいけど、池はもう埋めるって。」

「え⁈冗談じゃない。池と水仙は凹と凸なんだ。」

「べんじょこおろぎやめめんたろうバァ池で増えてかなーねェ、っ

ておっしゃってます。」

小さいさとしが起きて土間口に歩いて来る気配でジュンは抱いていた利恵の肩を離した。秩父弁をけなげに真似る利恵の目がまだ十分見える頃だった。今から思えば視覚が衰え始めていた利恵は嗅覚の比重を上げて感覚の天秤のバランスを均衡する準備を知らず知らずしていたのかもしれない。右目の視力が衰えていることをヒトはまず自覚しない。左目が自動的に右目を補完している。盲目の人は、町を車の音やてんぷら屋から漏れてくるダクトの匂いを頼りに自分の位置情報を知覚して歩いている。左右の視力のことや、色と匂い、目と鼻の役割をことさらに取り上げることは、あの夜から始まったのかもしれない。それは妻利恵の不安から発せられたものだったのだろう。黄水仙の香りは、利恵がいたあの夜から、利恵がいなくなってからも、ほぼ毎年、ジュンに冬の終わりを利恵が伝えてくれる蘭麝となっていた。悲嘆にくれているジュンを気にして母親が池を埋めるついでに一面の黄水仙も掘り返してしまって、その年で利恵と眺めた群生は一度枯れた。しかし、今、また蘇生してアトリエの前庭の一郭に黄水仙が生え始めている。その香りをジュンが嗅ぎ違えることはない。

「家内は他界しました。」

Erikaは何も言わず、薪皮にマッチで点火して組み上がった薪にその火種をかざしている。暖炉の通気口をレバーを引いて開くと、一気に風が吹きあがってきて、その火種がかき消されてしまう。マッチを何度も擦っている。マッチを擦る音と雷鳴と、時折暖炉に吹き込んでくる通気のぼあぼあとした変動音の不規則な連環の中にジュンとErikaは埋没している。

「ジュンさん。お疲れでしょう?」

「ぜんぜん。何か?」

「Ottoが持ってきた新聞を持ってきていただけますかとさっきお願いしたのですが?」

「え?。」

「お返事いただいてから、雷を十回数えてました、私。」

「そうでしたか・・・。」

ジュンの記事が載っている紙面だけ丁寧に抜き出して背後の床に置き、Erikaはそれ以外のページを一枚づつ筒状に丸めてひねり、その端にマッチで火をつけ、組み上げた薪の井形の中に上から落とし込んでから、薪皮をその上に重ねていった。火が移り、ようやく薪の焦げる匂いがして、覗き込んでいるErika の顔が火照りを受け始める。暖炉の前が明るくなり、薪のはじける音と通気口に吹き込んでくる風の音とが重なり、そのたびごとに暖炉の薪の井形が纏う焔の勢いが増してゆく。Erika が暖炉から半身を起こして、そのまま正面の床にぺたんと座り込む。しばらく焔を見遣りながら、中の濡れたワンピースに暖が当たるようにバスローブを両肩の端にずらして広げ、胸元や脇腹のあたりで肌に張り付いたニットの布地を指で摘まんで浮かせている。指を離すたび軽くピシッと音がして、水気が跳ねる。見かねてジュンがタオルを渡す。声なくErika はこくりと子供のように頷いてタオルを受け取り、床に座ったまま、ジュンの新聞記事を引き寄せて改めて読んでいる。

「JunじゃなくてJuin?」

「ですよね?スペルが、違っている。構いませんが。」

「これじゃ『6月』さんですね?」

「かえっていいかも、と。」

「『6月』で?」

「ええ。こっちで絵を描くことがあったら、Juinって雅号にしようかな。」

小鹿野のアトリエに小さな囲炉裏が一基ある。庄屋だった向かいの実家の母家の土間脇にあった火焚きを解体してジュンが持ち込んだ。冬場は鉤棒の先に南部の鉄瓶を掛けて湯を沸かしている。もう暖をとる必要のない時でも、気が向くと、利恵が薪で火を起こし、炭に火が移ると三徳を置いて、アルマイトの大鍋でシチューを作ってくれた。嬶座に座って、膝に寝ている小さいさとしの頭をのせたまま、すす竹の板ベラで鍋が焦げつかないように具材を回し返していた。その様子を客座からジュンは見守りながら、鉄瓶の湯を石鹸水に少し注いで先生に貰った大切なRaphaielのコリンスキー毛の10号絵筆を白磁のボウル皿の中で洗っている。時折、薪が軽くはじけて鳴る。その音以外、必要のない、充足した沈黙。当たり前のようにあったジュンのありか。

利恵は3年前の6月の夏越の祓の晩、長瀞の宝登山神社で茅の輪潜りのつもりで二の鳥居をくぐって、人形に「ミトコンドリア」と書いて焼いてもらうと言って出てから帰らぬ人となった。利恵は深い青のヒメアジサイを何より気に入っていて、確かあの晩、炉端の後ろに庭から手毬咲きになっていた大ぶりな二輪と小ぶりな一輪を切り花して花瓶代わりの甕に差してあった。失明は時間の問題で、レーベル病は母親から子に遺伝する母系遺伝性のあることを酷く気に病んでいた。眠っているさとしのおでこをさすりながら、利恵は必ずさとしの閉じている両目に口づけをしていた。孤発例の多いことをかかりつけの長瀞の倉木医院の若先生がいくら伝えてくれても、慰めにはならず、利恵の日常に笑顔がようやくうっすらとでも戻るのは通院してから数日してからだった。その繰り返しが続いていた。

石畳を踏み外したように見えたと目撃者たちが口をそろえて証言してくれたが、彼らも警察も、利恵の抱えた苦悩を知る由はない。知る必要もない。深い青色のヒメアジサイ三輪は、利恵の不文の遺言だったのかもしれない。人形に「ミトコンドリア」と書いて壊れた遺伝子を焼き、その遺伝子を持つ自分も絶つ。その代わり、さとしの目を救ってください。人の心の短絡は第三者の理性にはありえない理不尽に見えるが、当事者にとっては、数多い絶縁抵抗を経た末、溜まりたまった電流が最後の絶縁体を突き破って流出した結果で、そこに是非はない。利恵の水死遺体はすぐに発見されたことで、奇麗なままだった。囲炉裏脇でジュンが体温で温めれば生き返るような。さとしを母家に預けて、ジュンは利恵の遺体をずっと抱き締め続けた。どうした。寒いか。ほら。どうだ。あったかいか。ばかなやつだ。痛かったろう?ほら。もどってこいよ。何してんだ。ジュンは泣き続けた。震え、喚きあげ、ジュン自身の身を顔を掻きむしり、床を蹴り、顎を殴り、また唸るように息をかみ殺して、利恵の遺体を抱き起した。利恵の手にヒメアジサイ一輪を持たせた。どうした。ほら。しっかり握れよ。いいか、俺は、お前がめくらになっても、さとしがめくらになっても、まったく構わないんだ。俺が面倒をみるんだ。それが、いいんだ。おまえがいいんだ。お前たちが大好きなんだ。いなくなったら、おれに居場所がなくなっちゃうんだよ。是非もない利恵の死を、耐えがたく、その晩から、ジュン一人だけの夜伽は確か三日三晩続いた。6月末日だった。ジュンの本当の居場所は、ずっとそのままそこで止まっている。

「絵にJuinってサインなさるんですか?」

「そうしようかな。Juin一文字。」

「それだと製作年月日と間違われませんか?」

「なるほど。」

「全作品が6月の作品だって思われちゃいます。」

「まあ、普通、日付はキャンパスの裏に書き込みます。」

「そうなんですね。だったら、誤解されないですね。」

「Juinは絵の中に。画家の手形代わりですから。」

「六月様が描いたぞって感じですか?」

「それがいいです。そうします。余計に目立つように。」

「色は何色になさるんですか?」

「青ですね。紺青色じゃなくて、ちょっと紫がかった青藍色。少し物悲しい青。そうします。」

雨脚がまた急に激しくなり、降り荒ぶ沛雨に取り囲まれ、館全体が滝壺と化してくる。雷鳴の咆哮も急接近してきた。今度は南側の窓がダウンバーストの突風を受けてがたがた激しい音を立て始めるとその直後、頭上でバチッと炸裂音がして、館の一階の電気が落ちた。暗闇の暖炉の焔火の照り返しの中で二人は目を見張る。積乱雲の中に館ごと突如呑み込まれたような命の危険を察知する。頬の産毛や腕の毛穴が総毛立ち、館内の空気全体が電気を帯びているのがわかる。ジュンは腕をまくって皮膚を嗅いでみる。送電塔の鉄塔の真下で知覚したことがある臭い。磁場の臭いか、電気に臭いがあるのか。本能的に「やばい」と感じた瞬間、バキバキッと轟音がして、ドンドーンと二回、地響きとともに至近の二か所に雷が落ちた。中庭が明るくなった。

茫然とジュンとErikaは床にへたり込んだまま、中庭に面した明るくなった方の窓の並列を見上げている。滝の雨の向こうで、空の一郭が赤々としている。焔の筋が立っている。ポプラの巨木が燃えていた。低いところからさらに大きな火炎と白煙が同時に立ち上っ

てきている。Schindelというドイツトウヒの板を組み合わせた杮葺

きの井戸の屋根が風に煽られ炎上している。水しぶきが巻き上がると中庭から一瞬白く濃い煙が沸き上がり、それを突風がすぐに巻き去っててゆく。暗闇を火炎と稲光の電閃が照らして、風雨が渦巻く様子を二人はなすすべもなく口を緘して目で窓ごとに追っている。奥の窓の外を稲光が走り、手前の窓の中で、井戸の屋根のSchindelの杮板数枚が燃えながら光虫のように風に飛んで行く。村で一番高所にある北の斜面のKaysersbergの古城の丘の上の方に閃光が横殴りに何本も空を過ぎってゆく。間髪を入れず、雷が轟く。設置されている避雷針で天地の狂気をどの程度受け止められるのだろうか。高木の無い開墾された葡萄の畝の斜面を稲妻が這うこともあるのか。皆は畝間に平伏して風雨に耐えているのだろうか。丘のどこからかポプラの炎上を見ているにちがいない。

「私、雷の音は苦手で・・・。」

ジュンは中腰のままErikaの左腕を横から抱えるようにしていた。館に落雷があった時、Erikaの身を守る態勢を咄嗟に自然に取っていた。止もうとしない光芒一閃の繰り返しの中で、固唾を呑みながら自然の脅威が去るのを待つしかない。何かあれば、せめてErikaを守るまでのこと。ジュンのいざという時の態勢をErikaも解こうとせず、燃え裂けて倒れてゆくポプラの大木を見やっている。あたかも時空を越えて太古の巨人の焚刑を黙視するように。幹の上半分が中庭に焼け落ちた音がしたとき、Erikaはジュンの肩に右手を伸ばし、腰を下ろすように促した。不思議とこの状況下、必死に息を殺しているのはジュンの方で、Erikaの息吹にはまったく乱れが感じられない。ただErikaの手も腕も肩も氷のように冷えていた。

「寒かったんですね・・・。」

小さく頷くErikaにジュンは自分のバスローブを脱いで重ね掛けして、暖炉にもっと寄るように背を押しながら、後背から抱きしめ、

肩越しに腕を伸ばしてErikaの冷たい両掌を握る。冷え切った項にジュンの頬を押し付ける。黄水仙の微香がする。

「少しはあったかいですか?」

Erikaがまた小さく頷く。

「私の手をしっかり握ってみてください。ほら。」

冷え切ったErikaの指先をジュンは両掌で堅く包み込む。

その夜、館には誰も戻らなかった。